2005-11-06
時代の移ろい NO 1324
私の年齢より若い人を送ることが辛い。戦後のベビーブームで生まれた団塊世代、幼い孫の存在や、初孫が「お腹の中に」という家族構成を伺うと悲しくなる。齢を重ねると涙脆くなるというが、昔から感受性の強い私、すぐに涙が出てくるタイプなので葬儀の仕事は大変だった。
核家族の時代、転勤地に家を建てて住み着いた同級生も多く、その地で奥さんが亡くなったとか、本人の訃報も入ってきて淋しい思い。
そんなところから癒される孫の存在が有り難いが、何かの趣味や生き甲斐を有することが大切だろう。
人は、日々を生かされて歴史を刻む。手元に司会に関する様々な資料がある。便利な「虎の巻」みたいなものある。それは、過去100年間の新聞の一面記事をまとめたもので、故人が誕生された年の出来事が瞬時に分かる優れもの。
そこには当時の様々なデーターもある。因みに私が生まれた昭和22年だが、食パン6円24銭、銭湯の入浴料2円18銭、新聞代10円とあった。
「鐘の鳴る丘」「二十の扉」の番組が人気、映画ではゲーリー・クーパーの荒野の決闘があり、「港が見える丘」「東京ブギブギ」「みかんの花咲く丘」が流行していた歌。
ベビーブーム、宝くじ、ブギブギが三大ブーム、田村泰次郎著「肉体の門」が出版され、「不逞のヤカラ」「斜陽族」「ワンマン」が流行語だった。
政治や経済の社会背景が記載された資料はどこでもあるが、こんな情報が手元にあると便利、ナレーション創作やコメントで時代の「味付け」として大いに役立つ。
これらは講演の「まくら」でも重宝される。受講者全員の興味を一気に集める手法の一つともなる。
全国的に多い「葬儀の花輪」も時代の流れと共に減少しつつあるようだが、関西に花輪の慣習はなく、昔から「シキミ」であった。
現在一対5250円である「シキミ」も花輪と同じように減少し「親族一同」以外を見掛けることが希となった。
これは我が生野区や阿倍野区、天王寺区、東住吉区の方々にしか分からないだろうが、私が幼い頃、現在の林寺2丁目の交差点からJR環状線の寺田町駅まで、 国道25号線にシキミが並べられた葬儀があった。想像してみると700対ぐらいになるだろうが、ある侠客の親分の葬儀だった。
その葬儀を親父が受注し、シキミの領収書の金額欄にゴム印を押す手伝いを命じられ、確か一対500円だったと記憶している。
昔、侠客の葬儀が多かった。葬儀費用は低かったみたいだが、シキミや供花の数が凄かった。私が知る最も古い番頭さんの話だが、当時、侠客の葬儀は、終わった後で「花会」を開くのが慣習だったよう。
「花会が終わるまで入り口の黒幕を外すな」というのが互いの了解らしく、テラ銭が遺族への供養とされたようで、警察も暗黙していた節があり、のんびりとした今では考えられない昭和の時代だった。