2003-10-24

マイ・ウェイ   NO 585

 この数日、コラム「独り言」を打つ気力を失いつつある心境に陥っている。

 過日、HP「空飛ぶ水冠」を発信されている女性から、ビデオ送付に対する礼状を頂戴したが、この文章の内容たるや<ただものではない>と、いよいよ恐怖感に襲われてきたから。

 彼女がコラム「迷いの窓 NO 8」で書かれた私のこと、そこに、社交辞令的な賛辞の部分があるが、手紙の中の感想には、私が懸念していた部分に対する的確なご指摘があり、ただ「お見事」というしかない分析がなされていた。

 小笠原流の礼法を学ばれ、肌理細やかな心配りと気配りをさりげなく相手に感じさせる京都の文化。そんなイメージが文章からも伝わってくる。

 彼女がコラムのタイトルにされている「迷いの窓」は、京都で有名な「寂光庵」にあるが、ここには「悟りの窓」という円形の窓も存在している。

 そんな禅の世界への造詣深さを感じさせる文章能力。「独り言」の駄文なんて羞恥の極み。

 そんなところへ、今日、ファクシミリが送信されてきた。

 送信者は、過日に取材をくださったライターの方。雑誌に載せる原稿の了解のために「確認を」と書かれてある。

 この文章の「まとめ方」を拝見し、また上述の思いが強くなった。

 限られた升目の中に納められる文章。如何に文字を少なくして読者に伝えるか? それらの典型的なプロの世界に触れた感じを抱いてしまう。

 私は、葬儀に於ける故人の人生表現を語ることには自信があるが、上記のお二人の文章を拝見すると怪しくなり、「自身」の「自信」が「地震」のように揺らいでいる。

 そんなところで温めの風呂に入り考える。頭にタオルを乗せ、「水冠」ならぬ「湯冠」。
単に「ゆかん」と読めば「湯潅」となって私の世界。

 入浴剤に「森林の香り」というのを選び、昨年の3月1日から始めた「独り言」を振り返る。

 やがて、その中に自分で書いたことを思い出した。「書く」ことは恥を「掻く」こと。それでいいじゃないか。始めたきっかけは、純粋に自分が生きた「証し」。人生黄昏の道楽と割り切ってしまえばそれでいい。

 入浴剤の効能があったのだろうか、どうにか深い森の中から抜け出せたような思い。そこで、これが結論だ。このコラム「独り言」を発信していることは、生きた「証し」の前に生きている「証し」。

 こいつ、まだ生きているようだ。ご訪問の皆様に、それだけ伝えることが出来れば幸せなんだ。それは、私の「悟りの窓」となった「香り」でもあった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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