2002-07-14
変革の中で・・ほんもの NO 134
友人が所属する団体で「川柳」を募集したことがあり、寄せられた多くの作品の中に次のようなものがあった。
「財産を 取り合い 位牌 譲り合う」
核家族の潮流にある社会背景には、男女平等が尊重される一方で、祭祀権に関する長男、次男というような家制度の崩壊も生まれつつあり、こんな川柳が詠まれるのも頷ける体験を多くしている。
弊社では「葬儀」「死」「墓」「仏壇」などに関する情報を、全国のすべての新聞、雑誌からファイルしているが、地方の多くのお寺が「無住(住職が不在)」 となっている状況、また、「檀家であるが信者ではない」との記事。そして、仏壇仏具業界や墓地、墓石産業の凋落の現実を知ると、日本の社会構造が大きく変 化してしまうことに危機感を抱いてしまう。
過去ログにもあるが、日本人の根底にあった「儒教精神」の稀薄は、上述のようなシグナルを発信しているように思えるし、無宗教形式による葬儀のニーズの高まりも、これらが要因となっていると考えている。
僭越で恐縮だが、私は、「檀家であるが信者でない」ということは、今後のお寺の存続にあって重要な課題だろうが、一方に「檀家でないが信者である」との意識も重要で、将来の宗教意識の方向性がここにあるとも思ってしまう。
ある社会学者が、「これからのお寺の宗教活動は、寺ではなく住職という人への信望が重要視されるだろう」と断言されていたが、上記の考え方とも共通していると思う。
僧籍を持たれ、社会福祉法人としてグローバルなビジネス展開をされておられる方が、下記のような発言をされ驚いたことがある。
「檀 家制度がなかったとしたら、お寺は何をしていただろうか?。信者を増やし集める努力をする筈だ。それには住職個人に宗教者としてのパワーが求められる。伝 統や作法は人によってつくられ、人によって変えられるもの。その変化の兆しが始まっているだけで、極めて当たり前の社会現象である」
人それぞれの考え方は異なるだろうが、情報社会の中で、こんなご意見が登場することは、大きな影響力を与えることになるだろうし、正道を真剣に歩まれる宗教者の皆様には衝撃となってしまわれることだろう。
私は葬儀社を経営しているが、私自身は葬儀「者」であると自負しているし、そんなところから「本物」と称されるお寺様との交流も多く、どんな変革の時代にあっても「やはり本物は凄い」という体感もしている。
ある葬儀でお寺様の紹介を依頼され、私が「本物」と思うご住職にお願いすることになった。ご存じのように大都市と地方では「御布施」の金額が異なってお り、地方からの親戚の方が「異常に高い」とおっしゃられたが、私は、ジョークイメージで「お嫁さんをお世話することよりも大変なことなのです」と言い返 し、そのまま葬儀が進められることになった。
葬儀の終了後、その親戚さんは、「失礼を言って申し訳なかった。あんな方に導師をつとめていただいて故人も喜んでいる筈。もっと御布施を包むべきだったと後悔しています。後からでも、追加いいですか?」
そんなお寺さんも多くおられる。お通夜の説教で、参列者全員が感動の涙を流された光景を何度も見ている。広い世の中には「本物」が存在されることだけは確かなのです。
葬送だけは、本物と出会われることを祈っています。