2002-09-19

怒りモードでごめんなさい   NO 200

今日は、記念すべき200号。毎日、支離滅裂で勝手なことを書いてきたものだが、書くということは、本当に恥を「掻 く」ことでもある。葬儀屋風情が「偉そうなことを」とお怒りの方もおられようが、なにとぞご海容をくださいますよう伏して願い上げ、これからも是非、お暇 な時にご訪問いただけますようお願い申し上げます。

 それにしても悲惨な現実に衝撃を受けた。拉致問題のご家族のこと慮ると胸が張り裂けるような思いでいっぱいだ。今も、ただ、生存されておられることを祈るばかりである。 

 戦争、独裁者、宗教は、人を変えてしまう。「人でなし」行動に扇動すること、それがどんな悲惨な結果を生んできたか世界の歴史が物語っているが、何十年、数百年経っても人間の愚かさは治らないようだ。

 人は生かされているもの。いつかは人生の終焉を迎えるもの。死の床にあって来世に夢を託して静かに命終を迎えることこそが人間でないのだろうか。

 人に危害を加えてしまった。「来世で待ち構えていないだろうか?」。低次元と言われるだろうが、そんな素朴な恐怖感こそが、社会の形成に不可欠で重要だと信じている、 

 宗教やイデオロギーをバックにしての争い、それほど愚かなことはなく、動物の世界には絶対に存在しない現実で、言葉というものを与えられた人間が陥って行った、最悪の方向であるように思えてならないところである。

 テレビや新聞を見て悲しい現実を知る。しかし、「気の毒に」と思う人が多く存在しても、そのすべてが何れは「他人事」として忘れられてしまう口惜しさ。葬儀や宗教に関する仕事に携わる私にとって、最も憤りを感じることでもある。

 日本トータライフ協会のコラム「有為転変」の明日編に記載されているが、人災で行われる合同葬ほど馬鹿げたものはない。天災なら意味もあるが、悲しみの遺族達を単なる出演者としてしまうような合同葬は、何より故人に対する礼節が欠けていると思う。

 個々の葬送にこそ重要な意義があり、そこで故人の存在と尊厳を讃え、ご遺族を癒す行動がなければ、形式ばかりの葬送では余りにも失礼で、主催者側の驕りでしかないと確信している。

 宗教者の皆様には失礼ではあるが、人災に於ける葬送では「お経」だけではご遺族が救われないと思われ、ご本人の生きた証し、余命を断たれた無念さ、ご遺族や友人達の切ない思いをぶつける環境にある儀式空間にこそ、葬送の意義があるように思えるのです。

 宗教は、人を幸せにするもの。不幸を少しでも不幸でないようにすること。人間の生き方、ありかたを説いている筈だし、世界中で毎日伝えられる殺戮の現実を真摯に鑑み、宗教者の一員として「申し訳ない」との思いを抱いていただきたとい願っている。

 檀家の家族の自殺、また、詐欺の被害者となった檀家さんもある筈。そんな方々をどうして救うことが出来なかったと、後悔されることがなければ宗教者という名誉あるご存在から逸脱されてしまうように思える。

 今日は、ちょっと怒りモードで打ち込んでしまいました。弱者が被害に遭遇されないこと。悪の強者が正義への懺悔に目覚めること。宗教者が真の宗教者になられることを願っています。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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