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2002-11-08

貧者の一灯     NO 250

葬儀に携わる仕事で人生を過ごす私は、宗教者ではないが「葬儀<者>」であると自負している。

 様々な宗教の存在がある以上、それぞれの本義について研鑽をすることも義務だろう。

 初めは「広く」「浅く」というところからスタートしたが、葬儀の体験を通じて進んで行くと、その宗派独自の素晴らしさを知ることになったが、突き詰めると「矛盾」にぶち当たることも多くあった。

「葬儀は、このようにあるべき」「墓は、こうするべき」
 そんな作法が多く存在しているが、世に宗教が誕生する前から人の死があり、生活の知恵として生まれた慣習のうえに人が作り成り立ってきているように思えてくる。

 21世紀を迎え、社会の変革が様々な分野で始まっているが、今、葬儀の世界に吹く変革の風は非常に強いもの。宗教者にとって「逆風」だと感じるのは私だけでない筈だ。

 葬儀に関する世界は、近い将来にどのようになるのか。そんなことを考えていた時、次のような恐ろしい予測をした人がいた。

<寺と檀家の関係の崩壊・・住職と檀家内の故人との関係への移行>

 つまり、過去ログにある産経新聞の記事にあった見出し、「檀家であるが信者でない」という傾向が強くなり、宗教を信仰する前提に「住職」個人を信仰する姿勢が強まり、真の「宗教<者>」がキーワードになってくるのは確実であると断言していた。

 幼い頃、あるお寺さんから拝聴したお説教が印象に残っている。テーマは誰もが知られる「貧者の一灯」であり、幼心に強烈なインパクトを受けたことを覚えており、私の今のボランティア精神に大きな影響を与えてくださったと思っている。

 この「独り言」の訪問者には、お若い方々も多く、その方々のためにそのストーリーをしたためるが、幼い頃に耳にした物語調でやってみたい。

<昔々、 仏様のために灯火を持って集まるという日があった。金持ち達は、驚くような大きさの装飾付きローソクに火を点し、会場にやってきて競い合っている。そんな 中に1人の貧しい女性が、小さくて貧相なローソクを隠すようにして持ってきていた。やがてお祭りが始まった。しばらくすると強い風が吹いてきて、次々に ローソクの火を消してしまう。
金持ち達の大きなローソクもすぐに消えてしまい、風がいよいよ強くなってきたが、そんな中に1本のローソクだけが火を点し続けている。それは、彼女のローソク。みんなの注目が集まる。それは、お金がない彼女が自分の髪を切り、売って得たローソクだった>

 私は、お釈迦様物語が好きで、解り易く解説された書物から仏教に入って行ったが、その心の扉を開けてくださったのが「貧者の一灯」である。

 その時のお寺様のお説教を聞いていなければ、きっと「葬儀<者>」ではなく「葬儀社」になってしまっていたと思う。

 最近、お通夜でのお説教を寂しく感じている。大都会では少なくなってきているし、参列者にも抵抗感が生まれてきていることを危惧している。

 そんな中で、すべての人が納得される説教は難しいだろうが、視点を変えれば必ず道があると提起したい。
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