2021-12-04
思い出したこと ǸО 8757
一昨術に郵便局へ行ったが、ここの前身は大衆演劇の劇場だった。小学生の頃に何度か行った記憶があるし、銭湯にポスターが張られて貼られていたことも憶えているし、役者さん達が化粧を落とさずに来られていたことも憶えている。
そんな中に子役という人達もおり、転校ばかりであちこちを回っていると想像したが、転校で初めて教室で紹介される体験はきついものがある。
小学3年生で加賀屋小学校に転校し、2学期から東粉浜小学校へ転校したのだから大変だった。
掛け算の九九も憶えていなかったし、国歌「君が代」も歌えなかった。そんな教育体験がなかったからだが、転校してしばらくした頃にクラスメイトに「しょう紅熱」の感染が分かり、教室内が真っ白になるほど消毒された光景も記憶している。
加賀屋小学校では分校になっていたが、東粉浜小学校は静かな環境で、正門を入った所に小さな池があり、昔から伝わる「鐘」が存在していた記憶もあるし、ストーブの燃料である石炭は、講堂の裏に積まれていて、それを当番が取りに行くようになっていた。
学年は4クラスだったが、5年生の時にある先生が病気で長期入院されることになり、3クラスへ振り分けされることになり、生徒数が増えたので普通の教室には収まらず、理科室を教室にしたことも思い出す。
4年生の担任先生は野球の大好き人間で、体躯の時間はいつもソフトボールだったし、粉浜駅で集合し、難波の大阪球場へ行って南海と近鉄の試合を観たことも懐かしい。
5年生の時に小浜小学校から転校して来た生徒があり、私の隣の席になったが、彼の成績は飛び抜けており、就職していた知られる電機メーカーで画面にペンで作用するコンピューターを開発したので驚いた。
私が30代後半の頃、羽衣で同窓会が開催されることになり、音響システムを任されて持ち込んだし、みんなで歌う効果の伴奏が必要だったのでハモンドオルガンで演奏してカセットテープに録音して流したら、出席者から偉く感謝されることになった
当時に乗っていた車はセンチュリーで、前述の人物の帰路に同乗させることになったが、「何押語をしたらこんな車に乗れるのか?」と質問され、仕事での斎場の往復でと答えたらびっくりして納得してくれた。
「千の風になって」の曲で知られる「新井満さん」のご逝去の記事があった。この曲を初めて知ったのはレコードショップの方の葬儀の時で、梅田で書店やレコードショップをされている方が「この曲を流して欲しいと」CDを託された出来事だった。
故人とは何度かゴルフに行ったこともあったが、広島の八本松へ行ったことを鮮明に憶えており、ご出棺をゴルフ仲間とお見送りした光景が今でも浮かんで来る。