2012-05-27

振り返って  NO 2938


 現役時代、重なっている場合は不可能だったが、そうでないケースでは火葬場まで随行し、本当の意味での「ご終焉」を見届ける思いを強く抱いており、振り返るだけでそんなお客様が7000軒以上を数えている。

  ご出棺をお見送りするという単なる「葬儀司会者」とは異なる世界がそこに存在し、それが私の歴史の一部として誇りにする事実だと自負しているが、お骨上げ まで待ち合わせをされるご遺族を残し、導師をお勤めくださったお方をお寺までお送り申し上げる車内での会話が貴重な体験で、それは、これまでの人生の大き な宝物として刻み込まれている。

 私のような葬儀屋風情に分かり易く教えてくださったお話も多く、それだけでも一冊の本が出来上がるものだが、今日は、そんな中のほんの一部を紹介申し上げる。

「覚えておきなさい。『死』という字の横『一』は、あの世とこの世の境界線を示し、日が昇ること『旦』と書くし、死を迎えると『一』の下の世界を『タヒ』することになるのです」

 感心しながら<そうなんだ!>と相槌を打っていると、続いて合掌について次のようの仰られた。

「関節のある側を合わせると『節』を合わせることになり不幸せになり、内側の皴を合わすから幸せになるのです」

 そんなお説教の真贋は別として、帰ってから真剣に専門書を紐解いたことも少なくなく、それらはご仏縁で与えてくださった貴重な知識として真摯に学ばせていただき、多くの司会者達への伝承と言う行動の背景として生きている。

  ある高僧が遷化された寺葬だった。開式前の献灯の儀に際し担当する女性スタッフ達に教えたのが「五体投地」という諸作法。「頂礼佛足」という心情を抱けと 命じ、掌を上に向けて両肘と両膝を畳に付けるという形式で、葬儀を終えてから多くのお寺様達から驚きの声を頂戴した出来事として記憶に残っている。

  密教系に於ける「合掌」は我々凡夫と仏様が一緒になるという考え方もあるが、一般的な合掌の姿は感謝の心無くしては成り立たないもの。仏教を重視する国で の「ナマステー」の言葉に通ずるが、右手は清浄、左手は不浄として今に伝わる風習が残っている事実も知っておきたいものである。

 前述の女性スタッフ達の行動だが、古くは本堂の内陣には女性禁制という考え方もあり躊躇したが、結果として下陣で執り行われたからか問題はなく、よい意味でのお言葉に繋がったので安堵した出来事であった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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