2022-08-03

懐かしいなあ  ǸО 8921

マリンライナー朝から医院へ行って第二警察病院での予約診察をお願いした。コロナ問題で随分と先になるが仕方がないと納得している。

先生が貢納のある薬を提案くださり処方箋を自宅に届けてくださり恐縮したが、その薬を薬局から配達していただくことで助かった。

熱中症になり易い状況であまり外へ出ないようにとご配慮くださったものだが、その薬局は大病を患ってら退院した際「錠剤」が「嚥下障害」飲めないことからすべてを持って行って粉砕して貰っていたので懐かしかった。


あれから10年以上の月日が上がれた。何度も入院したのにこのように生かされている。それで学んだことは病気と寿命は別物ということ。「すい臓がん」だけは御免だが、最近は採血検査の数値で「ガン」が判明することあるそうで、はやめに採血検査を受けるようにしたい。

今日はワクチン接種の4回目の予約が取れた。やっと電話がつながった訳だが、1週間ほど先だがこれも仕方がない。

3回受けたのは全て「モデルナ」だったが、今度もそうなのかは不明だが、一応電話亜そのことを伝えておいた。

さて、大阪から岡山を経て宇野までを結んでいた「急行鷲羽」は準急列車からの昇格だった。こんな例は大阪と名古屋を結んでいた「急行比叡」もあるが、当時は東京と大阪を結ぶ急行列車はいっぱいあり、「なにわ」「せっつ」「六甲」いこま」などがあったが、ビジネス特急「こだま」が登場してから徐々に消え、やがて新幹線が出て来るのだが、ビジネス特急は「6時間50分」で、急行は約8時間半だった。

さて、前号で触れた宇高連絡船だが、国鉄が就航させていた物だが、何度か大きな事故を起こしており

「急行鷲羽」のリバイバル運転が姫路駅と宇野間で運転されるそうだが、全国でそんな企画が進んでいるようだ。

宇野から高松へは宇高連絡船が就航していたが、1906年に始まったこの航路だが、何度も大きな事故が起きて問題になっていた。高松沖で発生する霧の問題が指摘されていたが、「紫雲丸」という船が、1950年に事故を起こして沈没したが、その後に引き上げられて就航させたのだからびっくりだが、1955年に第3宇高丸と衝突して沈没し、168人の犠牲者が出ており、修学旅行の小学生も多く、それを機に全国の学校でプールを建設し、水泳教育を奨励することになった。

「紫雲」というのは「めでたい雲のことだが、2回も沈没したことから「死運丸」と揶揄されていたこともあり、本四橋の具体化のきっかけともなっていた。

この沈没した紫雲丸に乗船していて助かった人物がライオンズクラブのメンバーにおられた。何度もゴルフでご一緒したが、初めてラウンドしたのは朝日野ゴルフ倶楽部で、私はゴルフを始めたばかりで、信じられないようなスライスを打っていたことを憶えている。

何かの会話の中で「紫雲丸で助ったのよ」と言われてびっくりしたが、数年前に亡くなられたことを知って寂しく思った。

現在は岡山駅から「快速マリンライナー」が高松を結んでいるが、宇高連絡船には立ち食いそばの店があり、数年前まで連絡船という称号で高松駅の構内に存在していた。

妻と何度か高松へ行ったことがあるが、高松で讃岐うどんを食べてから「特急いしづち」で松山へ行き、道後温泉で一泊して次の日に特急「宇和海」で宇和島へ行き、各駅停車で窪川までの四万十川の景色が最高だった。

窪川から「特急あしずり」を利用して高知へ立ち寄り「特急南風」で岡山へ戻り、「さくら」で新大阪へ帰り黒潮に乗って天王寺駅に戻って来た。


この一泊旅行で乗車券と特急券が二人で一八枚になり、寺田町駅のみどりの窓口の人が驚いていたが、その後に九州や北海道での旅行に二〇数枚の切符になったこともあり、顔を覚えられたこともあった。

北海道の切符をお願いいていた時、後ろで待っている若い女性に「ちょっと時間が掛かるから先に」と伝えたら、「興味深いので見学しています」と返されたが、駅員さんが富良野からの路線で旭川にしたのを目にして、旭川じゃなく「滝川だよ」と変更して貰ったら、失礼しましたと変更して貰ったが、後ろの女性が「面白い!」と喜んでいた。
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