2022-11-19

手術のこと  ǸО 8993

病院食前号で触れた手術「腹部動脈瘤」だが入院して頭の先から足の先まで全てをチェックして貰い、何処も問題がないことを確認してから決断した。

かなりの長時間手術になるので覚悟をしていたが、手術の前日に病室へ執刀医が来られ、模型を使って説明をして貰ったが、上部と下部で血管を止め、人工血管につなぐと聞いて寒くなったし、手術が成功して血液を流した時に、血管内にあったゴミが流れ始めて心臓付近で詰まったら心筋梗塞で、脳内なら「脳梗塞」の危険性があると知ったが、人工血管は生涯問題がない優れ物で、祈るように天井を見ながら一夜を過ごした。

執刀医に続いて女医さんが来室。彼女はケアを担当するそうで、素晴らしい薬があるので痛みは一切ないと教えられ、出来たら禁煙をと勧められた。

彼女の言葉は説得力のあるものだった。「この病院に肺を患って入院している患者さんがどれほど多いかご存じですか?」「その大半が喫煙に問題があり、皆さん後悔しておられます。痛みを止める薬はいっぱいありますが、苦しみを止める薬はありません」

その言葉で禁煙をすることになったが、今でも彼女と出会ったことに感謝している。

手術当日の朝に看護師さんが迎えに来てくださり手術室へ行ったが、すでに待合室には数名の患者さん達がおられ、私が最後の順番になっていた。

やがて名前が呼ばれて手術室に入ったが、先生方やスタッフの方々に「よろしくお願いしますと」ご挨拶をしてから、自分で手術台に上がったら、「びっくりする患者さんだな!」と驚かれたが、マスクをされたり心臓の付近に心電図を計測するような器具が設置され、指先に医療器具がつながれたことを憶えているが、麻酔のガスが流れて来てからの記憶は全くなく、次に目覚めたのは手術の終わった後で、そのまま集中資料室へ運び込まれた。

ここでの24時間は最悪だった。16人の患者さん達がいたが、点滴が切れそうになると次々に警告音が鳴り。ノイローゼになりそうだった。

「集中治療室症候群」という精神的な症状があることを退院してから知ったが、あれだけは二度と体験したくない環境だった。

麻酔から完全に醒めるまでに「幻聴」や「幻覚」が生じることもあるそうで、私も二人の女性の姿を目にしており、「どうして君が?」なんて言葉を掛けてしまった。
どちらも元社員で、一人は司会者でもう一人は九州の同業者の娘さんで、2年館研修社員だった女性であった。

何より時間の経過が遅いので参ったが、異常な喉の渇きは地獄だったことを憶えており、その二人が脱脂綿に水を含ませたもので対処してくれた。

病室に戻って不思議な幻覚を見たのは、天井と壁に金色の鳳凰の柄が出ていたことで、側にいた妻に「ここは極楽か?」と言ったら「何をおかしなことを」と嘲笑された。

退院する前にアメリカで生活していた娘ファミリーも帰国。アメリカで生まれた二人目の孫とも病室で対面したが、生かされていてよかったと思った瞬間だった。

退院してからすぐに気づいたのが両手の掌の赤い感じで。少し痺れるような感じもあることを医院の先生に伝えていた。

ある日、銭湯へ行ったら左半身が「水風呂」の感じ、これはおかしいと次の日に先生に伝えたが、どの日にテレビの画面がシネマスコープみたいになったことを伝えたら、「ガンかへ行って来なさい」となって近所の眼科で詩や検査を受けたら、下半分が全滅で「年齢によるものでしょう」と言われたが、これらは一過性脳梗塞に寄る兆候で、それを訴えたのが1月だったが、3月になったらⅯRIをと言われたが、2月に脳梗塞を発症して救急車で搬送され、時間オーバーから後遺症が残った。

「脳幹損傷」「延髄損傷」「左半身麻痺」顔面麻痺」「複視発症」「誤嚥性肺炎」右半身コントロール出来ず」なんて先生たちの会話を聞きながら人生が終わったと覚悟したが、それでも現在まで生かされているのだから病気と寿命は違うようだ。

救急外来の処置検査が終わって病室へ入って間もなく、かなり強い地震でびっくり。扉が勝手に開いて恐怖に震えたが、北陸方面を震源とする地震で大阪では「震度4」程度の揺れだった。
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