2022-04-30

体験談から  ǸО 8886

ドニャ・パス号 元「ひめゆり丸」一昨日に施設へ面会に行きリハビリタイムで30分ほど待って5分の面会が出来たが、部屋内や廊下を歩く時は手摺を必ず持ってと伝えて来たが、悪事に施設から電話があって部屋内で釣Ⅿ長点としたそうで、頭部は心配ないが足に打撲痕があるので京土曜日に外科病院へ連れて行くと言われた。

昼前、その診断結果の電話があったが、「大腿部の骨折から入院」するそうで、2日に病院側と会うことになった。

何度も同じことを繰り返す妻、なんと学習能力がないのだと情けなく思うが、恐れていた古瀬節が起きたので心配だ。

我々高齢者にあっては大腿部や股関節の骨折は最悪で、歩行に差し支えたら歩かなくなるので深刻な体調不良になる危険性がある。

「取り敢えず股関節ではないようなので少しは安堵したが、これからも何度同じようなことで走らされるか覚悟しなければならない。

施設に入居する前に歩いていて何度も転倒して入院する羽目になったが、最終の転倒は私が側について昼食を食べに行った阿倍野のアポロビルの地下通路だった。驚かれた人達が心配してくださり、警備員を読んでいただいたり救急車へ搬送依頼をしてくれた方もあり、若い女性が持っておられたバイオリンのケースを枕代わりに化して貰って手を合わせた。

警察病院へ救急搬送され、2週間ほど入院となったが、そこから天王寺鉄道病院にリハビリ入院となったが、ちょうどコロナ問題が表面化した頃で、病院の玄関の扉も閉じられ、横の夜間入り口で警備の人にナースステーションとやり取りして貰う必要があった。

当時天王寺駅の構内も閑散としていたが、昨日に通ったらびっくりする程の人出で思わず<大丈夫か?>と心配になった。

深夜のǸHKを観ていたら数本まとめて「ちむどんどん」をやっていた。沖縄の名護市の村の家族の物語だったが、サトウキビ畑が出て来て懐かしく思い出したことがあった。私は高校2年生の夏休みに沖縄へ行ったことがある。当時はアメリカ統治で1ドル360円の時代だったし、パスポートも必要だった。

宿泊代を節約するためにユースホステルに入会し、那覇のユースホステル3泊したが、神戸港を出港してから友ケ島沖から那覇まで船酔いで何も食べられず、奄美大島や他億ノ島などを経て那覇泊港」まで66時間を要したが、それは強風の影響があったからで、我々が奄美大島にいた頃、那覇と久米島を結ぶ客船が転覆して多数の犠牲者が出て大変だったし、那覇港には数戦のンの人達が集まり、お身内の無事を待ちわびる光景が忘れられない。

その時に転覆した船は「みどり丸」で我々が乗船していた船は関西汽船の「浮島丸」だった。

タクシーで那古野パイナップル園へ行ったことがあったが、地道を走行していた時、運転手さんが「珍しいことに遭遇出来ましたよ」というので確認したら、道路の半分だけ雨が降っており、すれ違う車はワイパーを動かしていたが、我々の方一切降っていなかった。

それは「馬の背を分ける」の例えになる気象現象だが、今でも鮮明に憶えている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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