2022-10-04

懐かしい  ǸО 8962

近鉄特急過日の深夜に起きた宮崎県を震源とする地震。NHKの宮崎放送局から伝えるスタッフのコメント。就寝中のじゃ宅で目覚めて曲へ向かう途中の人物の携帯電話のやり取り。「え~と」「え~」のオンパレード。「え~」で知られる徳光アナのことを思い出してしまい。少なくとも基本的なお喋りが出来る人物をと腹立たしく思った。

最近のアナや芸人で「噛む」「滑る」なんて言葉が目立って多いが、噛むのを観ている視聴者はそれだけで疲れるのだからしっかりしてくれと伝えたい。

数日前、音楽番組を観ていたら。「弘田三枝子さん」が登場され、「人形の家」を歌われた。20数年前にテレビで観た時は昔の声量もなく表情も激変していたが、今回は往年の声質を感じるレベルで「よかった!」と思った。

高校1年生の頃、ラジオから流れて来た「ヘレン・シュピロ」の曲に衝撃を受けた。「悲しき片思い」という曲だったが、しばらくして「弘田三枝子さん」がカバーされて大ヒットになったが、掃除に片思いをしていたこともあり印象に残っている。彼女はパンチのある歌声で人気が高かったが、やがて「ロネッサ」の「ビーマイベービ―」の大ヒットで揺るがぬ存在感を見せていた。

この曲は「伊東ゆかりさん」や「中尾ミエさん」のカバーもあったが、バックに聞こえるドラムのリズムに合致していたのは「弘田三枝子さん」で忘れられない曲となっている。

当時はアメリカの曲が多くカバーされていたが、カスケイズの「悲しき雨音」も憶えているし、スプートニクの「テルスター」も強烈に憶えている。

しばらくすると「ジョーン・バエズ」が登場し、卓越されたギターテクニックで歌うフォークソングは素晴らしく、「ドナドナ」や「花はどこへ行った」なんか、ギターをやっていたので今でもコードを覚えている。

「500マイルも離れて」という曲も好きだったが、曲が誕生した背景を知って感動したこともあり、私の青春時代の思い出となっている。

当時、ギター仲間がいた。彼がクロードチアリさん」の「夜霧の偲び逢い」を教えてくれ、ヂュオで合奏した思い出もあるが、彼は病弱で、30歳の頃に亡くなってしまって悲しかった。

フォークのブームが始まってしばらくするとエレキブームになり、ベンチャーズや若大将が大人気となったが、その頃にラジオで流れるパーシーフェイスの演奏するビートルズの「イエスタデイ」を聞いて一気にビートルズ」のリズム感Hが半端じゃないことを感じた。

パーシーフェースの「イエスタデイ」はクラシックのような感じで衝撃的だったが、まだステレオが世に出ていない時代で、NHKの第一放送と第二放送がそれぞれ左右のスピーカーからステレオに聞こえる場bb組があったことを憶えている。

卓球の世界選手権の団体戦を観ていたら、愛知工業大学の横谷選手が出ていた。愛知工業大学の出身で私より二日早く生まれた長谷川信彦選手のことが懐かしい。ペンホルダーが主流だった時代にシェークハンドの攻撃型に転向され、その強烈なドライブは歴史の残る程知られており、鉄壁と言われたロビングも有名だった。

彼は関東で指導者として活躍されていたが、伐採していた木の枝の下敷きなって亡くなるという悲劇が忘れられない。

ロビングで知られる人物に「星野展也氏」がおられた。卓球仲間の友人の大学で練習していた時に訪問され、1セットだけ対戦させていただくという栄誉があったが、お得意のロビングはまさに鉄壁で、スタミナ切れになってしまう程だった。

長谷川選手も星野選手も国際大会で大活躍された歴史が輝くが、中国の選手と戦えるレベルになった最近の選手達を喜んでおられると想像する。星野氏も2年前の2月に亡くなられたが、静かに手を合わせた。

女子線湯の長崎選手のインタビューで「幸せ」という発言があったが、私は彼の野上野この言葉が理解できる体験をしている。

大阪市長杯と言う大会があり、何度か生野区代表で出場したことがあるが、ある年に予選江尾周太区民大会で優勝して代表となり、後の二人監督の推薦で、実業団の1部リーグのトップ選手と関西の学生ランキングでベスト4になっていたカットマンで、わが生野区は最高のメンバーだと言われていた。

現在のNHKの近くに当時の中央体育館があり、各区対抗のトーナメントで出場したが、準決勝になったら市長拝の対象になって終わるのでトロフィーだけ残っている。

そんなメンバーで私は先陣に出場させて貰い、監督から「楽しんで来い」と言われたが。それは群を抜く二人の存在があったからで、負けても団体戦だから勝てると思い、それこそ幸せな気持ちで楽しめた。
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