2017-03-14

思い出したこと  NO 6007

鷺温泉館 野菊青春時代に交友関係のあった人物と久し振りに会った・当時は共に卓球選手としてスポーツを楽しんでいたが、この数年の日本の卓球選手の技術の進化は著しく、世界トップとして長年君臨している中国へ一歩だけ近付いたという話題になった。

我々が現役時代に注目を一心に集めていたのは愛知工業大学の「長谷川信彦選手」だったが、過去の独り言で触れたように氏は2005年の秋に卓球場近くの木を伐採中に倒木の下敷きになって急逝されてしまった。

世界的にも輝く功績を残された氏だが、私と誕生日が2日違うだけだったこともあり忘れられない思い出の人物である。

ゴルフのボールやクラブの進化で著しい変革を生じさせたように、卓球の世界も例外ではなく、ラケットに貼るラバーの種類にも様々な変化があり、我々の時代とは全く異次元の世界となっている事実を知った。

青春時代に高齢の面白い人物がおられたことが印象に残っている。誰もが憧れる美しいフォームでかなり高度なレベルにあったが、使用されていたの随分昔の「一枚ラバー」で、それはスポンジが全くない代物で、打球が震えて飛んで来るように見え、誰もが苦手な存在だったが、バックハンドが得意だった私はその人物を得意としていた。

その人物が相手コートに打った球に返球する際に失敗すると、大きな声で「切れた~」と叫ぶことが印象に残っているが、もしも存命されているとしたら100歳をはるかに超えておられる筈で、間違いなくこの世から出立されていると想像する。

愛ちゃんの呼称で誰もに知られる福原選手だが、彼女が投げ上げサーブを取得するために来阪して指導を受けていた阿倍野区にある王子卓球場にも何度か行ったことを憶えている。

腰を落として不思議な横回転のサーブをしていた「作馬氏」という人物が指導されたと思うが、大阪の大会で何度か氏と対戦したこともあり、当時に「変則サーブ」と言われた氏の繰り出されるサーブには随分と悩まされたことが懐かしい。

当時の主流は「ペンホルダー」と呼ばれたラケットだったが、指の当たる部分を彫刻刀で削るのが楽しみの一つで、多くの仲間から頼まれたことが思い出される。

彫刻刀をバッグの中に携行していれば怪しまれる対象となる危険性があるが、ラケットやユニフォームと一緒にいつもスポーツバッグの中に入れていた。

卓球は想像以上にハードな運動量が求められる。トレーニングに勤しんだ当時のお陰で現在まで生かされて来たと思っているが、同年代の人達が今でも現役として試合への参加を楽しみにしているケースもあり、それらはそれこそ「生き甲斐」となるのだろう。

今日の写真は昨日に入った鷺温泉館の貸切風呂「野菊」だが、温泉卓球という言葉を思い出すことになった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net