2003-09-21
憎まれ役 NO 553
100歳の方の葬儀を担当した時、ご家族が近所の方々に赤飯を配られ、ご出棺時、喪主さんが「末広」を広げられて謝辞をされたことがあった。
こんな葬儀に比べ、若い方、特に子供の葬儀は、映画やテレビの悲劇のドラマどころではなく、葬儀に携わる誰もが担当したくないのが本音だろう。
葬儀社とは、本当に弱い立場。時には、憎まれ役を買って出ることもある。
「**町会の**ですが、**丁目のAさんの葬儀が入っていませんか?」
そんな電話が朝に掛かってきた。相手は、地域の役員さん。「どうも、Aさんの家の様子がおかしいので」と説明され、数日前から入院先の病院で危篤ということも知っておられた。
007のことを思い出し、<こんな情報感知が地域の防犯に役立てばいいのに>と思いながら、「承っておりませんが」と答える。
しかし、それは、嘘。Aさんは、深夜に逝去され、ご家族の要望で式場に直行。生前の意志を尊重して「家族葬」という打ち合わせで進んでいた。
夜中の3時、ご家族を車に乗せ、スタッフが布団運びのお手伝いにご自宅に行くが、社名のない車はもちろんのこと、制服を脱いで私服。それは、まるで隠密行動。
朝方に帰社したスタッフが、「なんでこんなに気遣いしなければいけないのでしょう? お客様の自由なのに」とぼやいている。
町の方は、そんなことを考えていないのが普通。中には恐ろしい役員さんもおられ、「誰に断って葬儀をやっている」と、悲しみのお家に怒鳴り込んできた御仁もあった。
我が国は、葬儀という世界にあって、まだまだ文化国家ではない。「班長さんに挨拶がなかった」「町会に無断で葬儀の時間を決めた」なんてクレームが少なくなく、本当の意味での自由葬の時代は遠い先のこと。
「この町で、そんな葬儀をやったことはない。通夜で接待の酒ビールが出ないとはどういうことだ」
そんな抗議も出てくるし、時には予算まで口出しされる人物もいる。
ご家族の希望される葬儀の完遂には、憎まれ役を覚悟しなければ決行出来ず、いつも町の役員さんと喧嘩をやらかす私。「変な葬儀屋」という称号もいただいているが、それは、私と「高級」という社名の勲章であると誇りに感じている。
「人は、悲しみを体験することで必ず他人にやさしくなれる」という名言があるが、葬儀は、喪主を体験されて初めて知られることが多い。
葬儀社は、町の有力者の言いなりになるのは当たり前。それだけ弱い立場にあることも事実。だが、遺族側の立場で行動するのがプロの仕事。これからも、どんどん憎まれ役を買って出よう。それも企業理念のひとつかも知れない。