2015-01-06

関西弁  NO 4065

葬儀という仕事に携わり多くの宗教者とご仏縁を結ばせていただいた。お通夜での司会を担当するとお説教や法話を拝聴することも多く、様々なことを学ぶことになったのは言うまでもない。

通夜の読経が終わってからご本尊とご遺影に一礼をされ、センターを少し外れられて参列者の方を向かれて「今日は故人のためにお越しくださって有り難うございます。死と時間は誰にも平等に与えられたものですが、そんな貴重な時間を5分間私に与えてください」と始められたあるお寺様の法話だったが、語られる口調も素晴らしかったが何より内容が秀逸で、本当に5分間で終わられたが「1時間でも聴きたかった」とか「こんなお寺さんもおられるんだ」と感心された参列者の感想が多かったので印象に残っている。

あちこちのお寺で開催される法要の会などにも積極的に参加し、本山から来られる著名な説教師の法話も拝聴したことがあるが、日本で3人の内の1人と称された高僧の世界は特別な体験となった。

法話が行われた場所は本堂だったが、打ち響く太鼓の音が聞こえてしばらくして入って来られた人物の姿はそれこそ歩かれる容姿だけでも「神変」の世界。受講される檀家の人達が自然に手を合わせている。中央まで進まれてご本尊に一礼をされてこちらを向かれた時、そこに後光が見えたのは私だけではなかったことを終わってから知った。

カリスマという言葉があるが、それは無言でも目を合わせるだけで頭を下げて手を合わせることもある。そんな体験をある神道の教祖さんの姿で感じたこともあった。

そんな一方で説教や法話を落語みたいに演じられるお寺さんも少なくない。残念なのは地元の方言のイントネーションで喋られること。親しみが湧くと勘違いされているのかもしれないが、話の内容が軽く伝わってしまうことは否めない。

「掌を合わせまんねん。掌には皺がおまっしゃろ。そこで皺を合わせて『幸せ』になりまんねん。手の甲は固くてゴツゴツしてまっしゃろ。節が出とりまんので合わせて『不幸せ』になりまねん」

「正月の元日の朝を元旦と言いまっしゃろ。『旦』の字の『一は』地平線や水平線でしてな。『死』という文字はその線の下を『タヒ』するところから出来とるんですね」

こんなことを関西弁で喋れたら参列者からブーイングが出そうだが、受けていると勘違いをされているお寺さんも結構多い。

さて、加盟している協会の事務局から「まぐまぐブログ」のコラムの催促があり、6本を打ち込んで送信しておいたが、その中に日本を代表する「宗教学者」に対する批判的な意見も書いておいた。

彼は過去に「オウム真理教」を擁護した歴史もあるし、「葬儀無用論」の提唱者でもあるが、最近は葬儀の「癒し」の問題について「宗教者や葬儀屋が勝手に言っていることで、葬儀で癒されることはない」と発言されており、そんな葬儀しか体験さえていないからだと哀れみを覚えた。

ご興味があれば「まぐまぐブログ」からお申し込みを。毎週「水曜日」の発信となっています。上部<HOME>でリンクされている「幸せ列車」のページに詳しい申し込み方法が掲載されています。

今日の写真は広島「ピピの日記」から拝借。尾道のお寺の境内にあるお地蔵さんを。
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