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2003-10-13

自慢話と裏話     NO 574

今日は、皆さんが嫌悪感を抱かれるような自慢話をしてみよう。

 私は、青春時代に卓球をしており、そこそこのレベルにあったが、ある時、ふとした災いで、利き腕である右手首を完全骨折してしまった。

 失神しそうな痛みで手を見ると、「く」の字になっている。それで視野が黄色から薄暗くなり、飛び込んだ内科の医師に「失神しそうだ」と言われ、見るだけで逆に失神しそうなデッカイ注射器を鎖骨の辺りに打ち込まれた。

 その日は、悪いことに4月1日。応急処置だけされた包帯姿を家族の誰も信用せず、包帯を外して容態を見せてエライことになり、知り合いの接骨医に運ばれた。

 さて、ここからが自慢話。副え木で固定された右手、それは字も書けないのはもちろんだが、何より卓球が出来ないのが辛かった。

 「早くて3ヶ月」 それが医師の判断した封印期間。週に2回の通院マッサージ。

 1ヶ月ぐらい経ってから、副え木が週毎に短くなってきた。当時にリハビリなんて言葉はなかったが、その頃から素振りを始め出す。しかし、フォアが可能でもバックハンドが全く不可能。そこで、フォアだけのトレーニングに励むことにした。

 やがて、封印期間の解除が訪れたが、バックハンドだけは恐ろしくて振れない心境。そこで、イメージトレーニングを徹底し、<バックが振りたい>との欲求を2ヶ月間我慢した。

 骨折の日から5ヶ月目。クラブの仲間を相手にバックを使ってみると、全く違和感がなく、骨折前の数段も上達しており、そこから私の躍進が始まり、大阪代表の体験や、大阪社会人で優勝という結果につながった。

 誰でもバック側が弱点であり、相手はバックを攻めてくるのが鉄則。そこが私の得意ということが実力以上の結果となったのだろうが、上述の優勝を期に引退をした。

 数年が経過し、世の中にボウリングブームが訪れた頃、私は、ボウリングに挑戦していた。まずは理論からと数冊の解説書を購入し、半年後には、そこそこのボウラーになっていた。

 そんな時、予想もしなかった病気で40日間も入院することになった。

 <やりたい、なんでこうなる?> そんな焦りは、卓球で体験したイメージトレーニングで抑えることが出来たが、なにしろボールの重さが大問題。そこで病室に鉄アレイを持ち込み、シャドウプレイで看護婦さんに何度も叱られたが、医師が許してくださった。

 そして、退院。すぐにボウリング場に飛んでいったのは言うまでもない。

 それからしばらくして行われた大きな大会。団体、ダブルス、男子シングルスのオールエベンツ優勝という嘘のような結実があり、目標達成ということで引退した。

 耐えるということと緊張することは、必ず人を成長させるもの。そんな自慢話の結びに、仕事の世界のことを少しだけ。

 司会の上達は、耳からの入力。絶対に憧れる「人」を発見し、徹底してその人に成りきること。因みに、私が憧れたのは、NHKの相川浩アナウンサーだった。
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