2003-10-20
現実の厳しさ NO 581
与えられた講演の時間が終わり、例の如く質疑応答に入った。
講演は、本来、一方通行を原則とするが、この質疑応答は最高のリサーチ。皆さんが日常に抱いておられる素朴な疑問。そこには、我々プロの仕事に大きなヒントを与えてくれることが多いから。
相変わらず、我々葬祭業者と宗教者に対する風当たりは強く、葬儀社も宗教者も選ばれる時代に突入しつつあることを実感した。
「ホテルで、社葬、偲ぶ会、お別れ会が行われていることを知っておられる方は挙手ください」
そんな質問に6割ぐらいの方の手が挙がり、ホテル葬が認識されてきていることも確認出来たが、「その中の方で、ホテル葬に参列された方は?」と問うと、まだ、2割ぐらいの方であった。
受講者は、一般の方々。これがビジネスマンや企業関係者を対象とすれば、ホテル葬はもはや常識として認知されており、多くの方々に参列体験が生まれている現状にある。
社葬セミナーやホテル葬セミナーで講師を担当すると、私が危惧していたことが始まっていることに気付く。
義理的参列者が大半というホテル社葬で歓迎されて流行した無宗教形式が、ドライブスルー型の「花一輪」お供え形式となり、「社葬なんて無駄」という意見が多くなってきているのである。
あるセミナーで、銀行の管理職という方が質問をされ、驚いたことがある。
この方、仏教系の大学を卒業されたそうで、質問された内容が強烈だった。
「限られた関係者で密葬を行い社葬の日を迎えるが、導師が引導を2回も授ける必要はないと思うのですが、いかがでしょう?」
正直言って、この質問に対する答えに苦しんだ。その場しのぎで恐縮だったが、俗に言われる「方便」で切り抜けることになった。
さて、上述の「社葬は、無駄」とおっしゃった方々。セミナーの後半で、私がプロデュースを担当したホテル葬の編集映像をご覧いただくと、考え方が急変され、「これなら意義がある」とご賛同くださった。
セミナーのまとめで受講者の感想発表があったが、その中に嬉しいお言葉があったので紹介申し上げる。
「自分が送られる立場と考えたら、映像のような社葬ならやって欲しい。そして、自分が会社を代表して社葬を企画するなら、絶対に『慈曲葬』を選ぶ」
これは、冥利に尽きるお言葉だが、実は、私の懸念ともなっている。弊社のスタッフたちにプロデューサーは育っているが、ホテルに於ける慈曲葬となれば、私の代行となる者が育っていないということ。
つまり、司会者はいるが、「司式者」が私しかいないということである。