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2004-05-02

結 界   NO 781

昨日の「独り言」の中で札幌のことを書いたが、今、札幌行きの段取りをしている。

 <忘れ物のないように>とチェックをしているが、携行しなければならない荷物がいっぱいで悩んでいる。

 2月の出張の際にお世話になったメンバー達にも会うが、彼らに喜んで貰える土産も考慮中で、明日の午前中に制作しなければならない。

 さて、葬儀というテーマでのパネルディスカッションの企画が進んでいる。私もゲストの1人だが、パネラーのもう1人が世界的な著名人。社会で潮流になっているある分野で世界一と認知された方である。

 果たして、そんな方と葬儀のことを話し合って大丈夫なのだろうか? そんな疑問を抱かれるかも知れないが、これまでの体験からすると、どなたでも意外に意義深いディスカッションとなっている。

 それは、葬儀が誰にも訪れる問題であるからで、会場で聴講される方々の眼差しは真剣そのもの。これは、舞台上で体験した者にしか分からない特別な世界でもある。

 最近に担当した講演で質疑応答の時間を設けたら、予想もしなかった問題提起があった。

 「葬儀って、お経と焼香だけでいいのでしょうか?」

 こんな素朴な疑問にこそ奥深い哲学で応えるべきだが、この問題は簡単ではない。何より時間という条件も大切。そこで受講者の表情を確認しながら、誰もが興味を抱かれるであろう話題からスタートした。

  「葬儀には祭壇が設けられます。そこに一対の燭台が存在します。それは、いつの間にか葬儀社のスタッフが点けており、中には百円ライターで点火というケー スもあります。人生終焉の儀式で祭壇がどんなに立派であっても、これでは『導師』を迎える環境ではありません。少なくとも、今から大切な儀式が始まるとい う『神変』が必要ではないでしょうか。宗教儀礼には、『ここから』『今から』という境界が大切で、これらも『結界』という世界に含まれるのです」

 そんなことから始め少し長くなってしまったが、何百回という講演の質疑応答で皆さんから頂戴した素朴な疑問、それらを総合して「かたち」に進めた結果が弊社の葬送形式で、「思い出を形見に」というコンセプト重視につながっている。

 葬儀が終わった。その意義って何だろうか? 宗教的に成仏したからという安堵感も重要だが、私は、えにしに結ばれる方々に故人を思い出していただけることに、業者として「供養」がプレゼントできないだろうかと真剣に考えてきた。

  そのひとつが『音楽』で、葬儀の中で「献奏曲」としてお好きだった曲から選曲し、参列された方々のこれからの人生にあって、その曲をどこかで耳にされた 時、確実に故人のことを思い出されるように伝達するわけだが、これを「レクイエム・インパクト」という定義で大切にしている。

 寄った、集まった、焼香した。そんな葬儀では、何より大切な宗教者の読経を単なるBGMにしてしまう。それでは故人の生きられた「証し」なんて生まれないだろう。

 悲しみの慰め、それは故人との思い出話が「最高の薬」だということ。そして、我々にお手伝いが出来ることは、上述した「思い出していただくことが供養」という意義。そこに協会のメンバー達が共有する「星名国際登録」の意義もつながってくるのである。
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