最新 最古
2005-01-05

重い話題   NO 1027


 葬儀の司会を担当し、そのまま火葬場まで随行。「お斎」の会場となった料理屋さんで「神仏と共食」について説明した後「献杯」を進め、同行していた女性スタッフに後を任せて事務所に戻った。

 スタッフの大半が明日の葬儀の設営に出掛けている。今日、私の知人が夕方に「事前相談」に来られるという電話があり、隠れ家で草稿と録音をしながら待機していたら、お亡くなりになったというお電話があったそう。すぐに担当スタッフを病院へ走らせる。

  私が明日に担当する葬儀は少し遠方で、会社とご当家の合同葬。式場が狭く、宗教儀礼が最も長時間となる宗派。この冷え込みの中で予想される多くの会葬者へ の対応で悩んでいたが、お通夜に行ってみたらご親戚が60人ぐらいもおられる。今日の冷え込みは半端じゃなく、外の弔問者の挨拶に回った時に頭の血管が切 れそうなぐらい寒かった。

 さて。ここで昨日書いた銭湯内での会話「重い」話題について触れさせていただこう。

 病院で2ヶ月間の闘病生活だが、気管切開、手術、強い副作用を伴う薬の投与など、その度に家族の承諾のサインが求められたという。

 容態が芳しくなく、誰の目にも<このままでは?>退院することが出来ても廃人同様というところまで覚悟をされたそう。

 そんな時、ふと交わされた担当医師との会話に「重い」意味があった。

「このまま延命ではあまりにも可哀想。どこかで安らかに息を引き取らせることは可能なのでしょうか?」

 「それは出来ません。『命』というものはご本人だけのもの。第三者によって左右出来るものではないのです。医師として自然なご臨終を迎えるまで最善の手を尽くします」

 <手術や薬投与の度にサインを求められ、その責任が家族に負わされるのに、本人や家族全員のことを考えて延命措置をストップして欲しいと願うサインが出来ないとは?>

 そんな疑問を抱かれたご家族、これは「尊厳死」という言葉が絡み簡単ではないが、そこに複雑な問題が秘められているような体験談だった。

 「命」とは重いものである。尊厳死や安楽死について軽々しく論じて欲しくないが、そんな悲劇的な事実が全国で何千人と存在されるだろう。

  葬儀のご依頼を頂戴し、日程や規模についての打ち合わせが始まるが、ご終焉の様子や闘病生活のひとこまを拝聴するのも重要なこと。<事務的な対応で進めた くない>というのが私の考え、そこに「命の重さ」があると信じており、残されたご家族にその伝達が出来れば嬉しい限りだ。

 今日、ある総合商社の3名の方が来社され、葬祭業界の社会ニーズの変化が話題になった。創作中の収録映像をご覧になり「匠の世界」と称賛くださったが、それは「手作り」だからこそ出来るもの。事務的でない「証し」であると誇りたい。

 弊社の空間ホールを活用して団塊世代向けのイベントフェアを開催したいとのこと。日常生活、医療、介護から葬儀、そして悲嘆に関するケアまでを含めたパネルディスカッションの予定も。ちょっとプロデュースのお手伝いをしようかと考えている。

 冷え込みで足腰が痛い。今から銭湯の電気風呂へ行って参ります。おやすみなさい。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net