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2005-08-28

列車移動?  NO 1254


 出張の列車内で読む本を2冊持参、その一冊は、一昨日に郵送されてきたライオンズクラブの情報誌だった。

 ライオンズクラブのメンバーの一員である私、仕事柄あまり出席できずに申し訳ない心情。そんな中、多くの素晴らしいメンバー達との出会いが人生に於ける宝物だと思っている。

 入会宣誓式を行ったのは昭和57年10月26日の例会、35歳の時。

 あれから23年の月日の流れ、一時は110名を超えるメンバーが在籍していたこともあるが、この数年で段々少なくなり40名ぐらいとなってしまっている。

 情報誌には淋しい数字が掲載されていた。この一年間で解散した国内のクラブが43もあったそう。また、メンバー総数が3749名の減少、1976年度の会員数になってしまったという。

 一方で女性ばかりで組織されたクラブの登場も増えているし、男性オンリーの既存クラブに若い女性をメンバーとして迎えるケースも多くなっている。

 振り返ってみれば多くの貴重な体験があった。毎年行われる式典でナレーターを務めてきたが、それは入会後すぐに命じられたこと。そこで来賓として出席されていた他クラブのメンバーから広がり、私の書いた追悼の言葉が全国に流れて行った歴史もある。

  また、大規模な式典で耳にされたプロデューサーや舞台監督から要望され、予想もしなかった世界でナレーターを担当してきたことも面白い体験。それらはロー タリークラブにも招聘を受ける結果となり、ホテルの会場空間を飛び出し、フェスティバル・ホール、シンフォニー・ホールから中央体育館まで体験すること に。

 そんな関係で予定外の仕事が多くあった。弔辞の原稿を依頼されたからである。

ある時、出張中の東京のホテルに電話 が。「助けて、頼む」と悲壮な叫び。詳しい事情を伺ったら国際的に著名な方へ捧げるもの。創作した私の名前が出た場合のことを考え、プロでないと不可能な レベルの内容にしたことも懐かしい思い出だが、メールなんてない時代、ホテルのファクシミリでやりとりしたことを今でもはっきりと記憶している。

 あるホテル葬、故人はライオンズのメンバーだった。そこで「また会う日まで」という曲を私自身がハモンド・オルガンで生演奏したこともあるし、大規模な社葬でメンバーの皆さんに合唱いただいたこともある。

  ライオンズクラブの精神からメンバー同士の友情の絆は固いもの。互いの「L字」のバッジで心が通じ合うのはよいこと。私をこの世界に誘い込んでくれた方も 昨年に亡くなられた。奥様から「形見」と頂戴したパターがあるが、その奥様も後を追われるように急逝されてしまったのが衝撃だった。

 過日、京都の貴船で行われた「納涼の会」に代理で妻を出席させたが、「旦那を退会させて代わりに入会を」と言われたそうで笑っていた。

 出張での予定を済ませ、予約してあったホテルをキャンセル、最終前の「のぞみ」で帰阪。どうしても明日の葬儀を担当しなければならず、多くの関係者にご理解を願って失礼することに。

 重いバッグを提げての移動は大変、出来るだけエスカレータを利用しないように心掛けたら足腰が痛い。土産話は、また後日に。
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