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2005-10-10

前進と後悔?  NO 1297


 葬儀の司会というものは、何歳になっても何度担当しても疲れるもの。それは命の尊さを目前で感じる故人の人生の「重み」だろうし、そこに生じる「悲しみ」の環境に自身が包まれてしまい、悲しみを共有するからとも言えるだろう。

「1時間の葬儀の司会で疲れる?」と疑問を抱かれる司会者さんもおられるだろうが、ご出棺をお見送りしてから虚脱感に襲われるような仕事をしてこそ「葬儀の司会者」と名乗って欲しいものである。

 講演やセミナーを通じ、全国で多くの葬儀社さんや司会者さんと知り合い交流が生まれているが、そんな方々から「疲れる司会ができました」とメールや手紙を頂戴することは嬉しいこと。

それらは、ちょっとした意識改革から始まったことであり、そこに至ったのはご自身の精進の結果に間違いないが、その道は途轍もなく遠いもの。私生活にまで変化を及ぼす影響もあるだろう。

「今、静かに振り返る時、そこに延びた一筋の道は、彼の人が歩まれた人生そのものの道」

 そんなフレーズがあるが、葬儀の司会の道に高速道路はなく、でこぼこ道を躓きながら進んで行くものと考えたい。

  塾生達に教えた一オクターブのドレミ音階第一声の重視だが、それは自身の感情や体調でも変化が生じるもの。トークの速さまで微妙に変わり<急いでいる>と いう心境がマイクとスピーカーを通して間違いなく参列者に伝わってしまうし、確実に表情にも出てしまっていることにも気付きたい。

 これまでに何度も書いたが、司会の仕事は究極のサービス業、的確な情報入手を瞬間的に処理できるプロデュース力も必要で、ハプニングもハプニングでないように解決できるだけでなく、それを誰にも傷つけずに「起きてよかった」ぐらいに転化させることが出来れば最高だ。

 しかし、ここで考えたいことがある。それは、ハプニングの大半が予想できた範囲内ではなかったかということ。そこに「if」の思いが欠如していたとも言えるだろう。

  そんな偉そうなことを言えるのは、私がこれまでにいっぱい反省してきた歴史があるから。後悔だけはしたくないと考えて行動してきたつもりだが、今でも反省 と後悔が山ほどある。後悔とは自身が何かのきっかけで成長した時に過去に対して生まれるもので、それは、道の前進に付きまとうものでもある。

 弊社を訪問された司会者さんの目的は技術の向上進化だが、その最速の道が上述の意識改革。「司会屋」さんという単なる進行係から本物の「司会者」さんへのステップアップのキーワードがこの部分、「会」から「式」への意識転換さえ見えればトークそのものが激変する。

 これも何度も書いたが、まさに「体感に勝るものなし」、喪主を体験して初めて理解できることもあり、そして孫を持ったら間違いなく葬儀そのものも司会への取り組みも変わる。
それまで謙虚な姿勢で臨みたい。

 塾生達のHPやブログを訪問すると、そんな意識改革と進化が感じられる。みんなの文章からやさしさが伝わってくる。彼らが担当した葬儀の故人とご遺族は、不幸の中で少しでも不幸でない「ひととき」をお感じいただけたと信じている。

 さて、今日の結びに弊社が加盟する日本トータライフ協会の「コラム 有為転変」に「夫婦の物語り」が連載中、また、待ち望んでいた「出たとこ勝@負ログ」さんのスピーチ完結編も更新されていました。どうぞリンクのページからご訪問くださいませ。
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