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2005-11-03

これも勝手な思い込み?  NO 1321


 この「独り言」の1000号記念にセミナーを開催したのは、昨年の12月の初旬だったが、あれから今日の号で321日目、まさに烏兎怱々である。

 その後に「塾」を開講したが、葬儀に対する熱い思いを抱く人達が全国から来られ、数名がブログを発信されることになった。

 会費、交通費、宿泊費を負担され大阪までやって来られる。その熱意ある行動にスタッフ達も驚いたが、そこで生まれた交流は何より得難い「絆」というご仏縁とも言えるだろう。

 そんな彼らのブログやこの独り言で塾の存在を知られた方々から「2期生を」と、受講の問い合わせを頂戴しているが、今しばらくは1期生を見守るようにフォローしたく、ちょっと先まで延ばすつもりなのでご理解を。

 先月、4時間半のセミナーの講師を担当したが、終わってからの疲れは予想外に堪えるもの。ホワイトボードの存在があると着席することなく進めるため、どうしても腰に負担が掛かって来るので大変だ。

 先月下旬から今月初めの講演は、すべて1時間半。これだったらまだまだ大丈夫なようで積極的に取り組むつもり。

 今日は、文化の日だったが、我が業界が「プロ」として社会認識される日はまだまだ遠いよう。

葬儀のプロデューサーやディレクターが「悲しみのプロ」として認知されたら葬祭文化の到来だが、悲しみの場だけが背景となり、そこで「生業」だけが目立っているようでは無理なこと。だからこそ「死」や「悲嘆」を共に研鑽したいのである。

 近い将来、葬儀の「ありかた」が急変する時期を迎えることであろう。大切な家族の死に接し、愛する人の死が自身に受け入れられるまで葬儀を行わないというケースも考えられるだろう。

 幼い子供の交通事故、また自然死ではない不慮の死の場合、そんな発想こそが究極の葬祭サービスである筈だが、すべてが2,3日で済まされてしまう現実。それを誰もが「当たり前」と思い込んでいることも考えてみれば恐ろしいこと。

 家族それぞれが思われることを表面化することさえ許されない環境、それを押さえることが美徳というおかしな文化、そんな既成事実に流されて行われているのが現在の葬儀。

 葬儀は、その「ありかた」と「進め方」で悲嘆の軽減につながる事実があるもの。その逆で「後悔」が生じることになれば悲嘆の心情が深くなるのは当然のこと。

 一人の方が亡くなった。患者であった人が「遺体」に名を変え、家族が「遺族」となり、周囲に多くの人達が集まってくる。親戚、近所、友人、知人に宗教者と葬儀社が、自分達のこれまでの常識で葬儀を進めてしまうのが現実。

 これまで、悲しみの強いケースで「1日だけご家族だけの時間を」と進めてきたことが多くあるが、確かに疲労度がアップしても「あの1日がよかった」というお声が多いことを知って欲しいし、それが悲嘆の軽減に大切な役割を果たしてくれた事実が大きいのである。

「葬儀は人を集め、人を走らせる」「業者の常識は、社会の非常識」の言葉を思い浮かべながら、皆様もご一緒にお考えいただければ幸いです。
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