最新 最古
2006-01-06

懐古から現実へ  NO 1386


  年賀メールに外国からのものが数通、その中にインドネシアに在住する新聞記者さんからのものがあった。ファミリーの写真を添付され、2年前に赴任されてか ら大事件が続き、記者として活躍されていたお仕事振りが伝わってきたが、彼が日本へ送信された記事や写真を目にされた日本人が恐らく数千万人以上いるだろ う。

 もう1年ぐらい駐在予定だそうだが、何よりテロの被害に遭遇しないように祈りながら、便利なネット社会の恩恵を再認識した。

 そんな社会背景から年賀葉書が減少傾向にあると知ったが、やはり賀状というものは風情を感じるものである。

 過去に書いたが、もう、10数年以上も前の話。今日6日、賀状に混じって一通の封書が配達されてきたことがあった。

 中を開くと私宛の年賀状が入っており、住所間違いで戻ったもの。別紙の和紙に書家らしい達筆な文字で『初春や 賀状戻るの寂しさよ』という俳句が添えられてあり、そのお見事な心のオシャレに感銘を受けた出来事だった。

 この数日、10通ほどの賀状が戻ってきた。調べてみると転宅や転勤というのが多かったが、同年代の中で2人が定年を前に「引退して余生を楽しむために転宅」というのがあり、都会から程遠い山間の地に居を移しており、憧れの畑仕事の収穫を送ってくれるというので楽しみも。

 定年のある人達の方が余生計画についてしっかりした考えを持っているようで、我々のような自営の立場は無頓着とも言えるだろが、日々の仕事で人生終焉の儀式に携わる私は、もっと真剣にこれからの晩節を考えなければいけないだろう。

  そんな心情を抱きながら本棚を整理していたら、懐かしい思い出の光景に出会い懐古した。過去に私の愚書出版パーティーが3回あったが、そのすべてにご出席 くださったご住職の書物、社会福祉活動に大きな貢献をされたそのご生涯、私の2人の子供達が通った幼稚園の理事長さんでもあった。

 その 立派な書物を開け、ふと目に留まったのが私が5歳当時に走っていた園児専用バス、昭和27年頃の写真だった。何と、フロントガラスが開閉出来る仕様、終戦 後の混乱期に多くの園児達を乗せた歴史を感じる一枚で、こんなバスが舗装もない我が生野区内で埃をいっぱい巻き上げて走っていた光景を想像した。

 昔、そのご住職から突然にお電話、「久世君、君にしか出来ない葬儀を頼みたい」と伺って担当申し上げたが、ある会社の社長と専務が事件の被害者となられたお気の毒な合同本葬儀だった。

 ご両家と会社に何度も通い、それぞれのご意向を拝聴しながらシナリオ構成したが、大変な辛苦を体験した思い出が残っている。

 そのご住職もすでにお浄土へとご遷化されたが、崇高な御遺志が受け継がれ、老人ホーム、保育学園、授産施設などの開設に進まれて発展を遂げられている。

 園児としてお世話になった2人の子供も30歳を超えたが、園児から学生の時代は親が最も苦労を強いられた年代であるとも言えるだろうし、誓い将来にそれらを体験することになる。

  オヤジと呼ばれる晩節を何年過ごすことが出来るのだろうか、ふと、そんなことを考えた日であったが、帰宅前、チーフ・パーサーから難しい課題を伝えられ た。阪神淡路大震災の「1・17」神戸慰霊祭に「女性スタッフ6名を伴ってお手伝いに」と依頼が入ったそうで、さてどうするかと思案中。
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