2002-07-12

人生のひとこま    NO 132

昔、若かりし頃、ヘラブナ釣りに凝っていたことがあった。夜明けに家を出て昼までの釣行。午後から仕事というペースが、1週間に一回ぐらいあった。

 行動するのはいつも2人。その時によって相手は異なったが、すべての方がお年寄りであることは共通していた。

 釣りというものは不思議なもので、同行者の釣果が気になるもの。最も疲れるのは、自分だけが釣れること。相手の方に多く釣果が上がることで気分が楽になるもの。

 私は、何に取り組むにしても遠回りをすることが嫌いで、本から理論を学んでのスタートが近道の極意だと考えている。

 ヘラブナ釣りにも格言があった。「1に場所。2に寄せ。3に餌」ということで、先人達が語り継いでこられたこの極意の正しさは、数回の釣行で確信するに至った。

 ヘラブナを愛するお年寄り達は、気長、気短いの両方を持ち合わせる性格が多く、頑固一徹な一面も共通し、釣りに関しては他人の意見に耳を貸さないタイプが多く、「絶対」という確信ある提案をしても、「なるほど」と行動されることが少ないという特徴も面白いところだ。

 そんな愛するお年寄り達も、今は全員がこの世を去られ、それぞれの遺品となった用具が形見として私の手元に多くある。

 ある日、帰路の車中で、私が「名人」と称していた方が、哲学のような人生のひとこまを説いてくださったことがあり、印象に残っている。

 その方は、数年から10年後に訪れるであろう自身のご終焉時の姿を思い浮かべながら、次のようなことをしんみりと語り始めた。

「わしが死を迎えるのは、病院だろうか? その時、ベッドの上で白い天井を見つめながら何を考えているのだろうか? 子供や孫が側にいる光景は浮かんで来るが、どうも女房が浮かんで来ないのだよ。どうも、あいつが先に逝ってしまうような気がしてならんのじゃよ」

 その方の奥様はお元気で、朝の5時半に迎えに参上しても必ず見送られ、私の分までお弁当を用意してくださるやさしい方だった。

「男とは勝手な生きものでな、自分が先に逝く。妻は見送るべきと思ってしまうものでな。この前までは、そんな光景が目に浮かんできたのだが、最近、それが浮かばんようになってきたことが無性に淋しくてならんのじゃよ」

「久 世君、わしは、この終焉の光景が魚釣りに似ていると思っているんじゃ。相手のことを気遣う気持ち。自分よりも相手が、と当て嵌めてみると、自分は去って行 くが、残される家族の思いを考えてしまうことになり、自分は逝くだけ。自分の去る姿を家族の立場の心情で見てしまうことが辛くてな」

 こんなお話を拝聴したのは、私が確か30歳前後の頃。ご本人は奥様に看取られながらご終焉を迎えられたが、その奥様もその3年後にこの世を去られた。

 今頃は、西方のお浄土で再会を果たされ、蓮の台に安らぎたまい、懐かしい昔話に花を咲かせておられるような気がします。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net