2005-08-29

恥ずかしい話?  NO 1255


 担当申し上げた葬儀、式場が入り組んでおり会葬者の皆さんをどのように誘導するかが大変、開式前のスタッフ打ち合わせで「流れ」を組み、時間通りの定刻ご出棺となった。

 いつものように「お別れのひととき」はゆっくりとした時間配分、ご遺族からご要望のあった参列者のお別れもスムーズに。

 御斎の会場に回ってからお寺様をお送りしたが、その車内で私に引退勧告のようなアドバイスが。「働き過ぎ、若くないですよ。互いに無理をせずに参りましょう。完璧主義は死ぬまで治らない性格かも」なんてお言葉が。

 共に孫が同年代という関係、表情をゆるめて孫談議になる頃に式場に戻った。

 さて、昨日の「のぞみ」の中、座席のポケットに入っている雑誌「WEDGE」9月号を読んでいて、最終ページ「読むTV」のタイトルの見出しに目が留まった。

『映像の中で交差する 失われた風景と失われなかった人生』という文字、「湯川 肇」さんの文章だが、一気に読んで終章の結びの言葉に感慨を覚えた。

 『過去と現在の映像が組み合わさったとき、失った風景と失われなかった人生が見える』

 ここで内容については触れないが、「のぞみ」の最終列車をよく利用する私、車窓の光景を見ながら、その車内には独特の趣を感じる時間でもあり、ふと<余生とは?>なんて過去と未来の両方のことを考えていた。

 人生の最終列車の時間は不明、これまでに東京から、また博多からの最終の「のぞみ」に何十回と乗ったが、列車の移動は飛行機と全く異なる「もの思い」に耽る時間でもある。

 9月、10月と何度も出張予定が入っているが、車内読書は何より楽しみ。会社の机で考える詩文とは別の感情「移行」が生じる。それは「偉効」と呼ぶべき副産物で、いつか「遺稿」になってしまうかも。

 さて、昨日、ちょっと恥ずかしいことをやっていたので暴露を。

 会社からタクシーで駅まで行き、列車に乗ってセカンドバックを開けたら携帯電話が入っておらず、早朝からの行動を思い浮かべながら<何処に?>と悩んでいた。
 勿体ないが2本の携帯電話を持つ私、その新しい方が行方不明。故人情報は心配ないが個人情報がいっぱいある。そこで仕方なく列車内から会社へ電話。確認して欲しいと依頼した。

 社員は私の部屋や事務所内を捜索、ないということからダイヤルをしたそうだが応答なし。

 後悔と気持ちの悪い心情で出張から自宅に戻り、考えられる場所をチェック。ついには覚悟を決めてダイヤルをしてみた。

 すると呼び出し音が聞こえるではないか。机の付近ということは分かったが、すぐにその所在が発見できない。

 机の上をひっくり返し大騒動、落ち着いて発信音を確かめたら机の足元。奥の方に転がっているのを見つけた。 

 <そうか!>と記憶を戻して分かったこと、それは自宅を出る前の出来事だった。バッグを開けたままで椅子の上に置いた時、当家のワル猫がバッグを落としていた事実だった。

 その時に転げ落ちたというのが真相だが、<ボケてきた?>なんて思って淋しい日となった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net