2003-02-17

今日の葬儀から    NO 347

最近、「家族葬」と呼ばれる葬儀が流行してきている。

弊社への電話でもホテル葬、家族葬、無宗教形式への問い合わせが多くなっているが、これらは、今後いよいよ強くなってくると確信している。

今日、私が担当した葬儀も、まさに「家族葬」。大阪の西区にある由緒あるお寺様の立派なご本堂、ご本尊を中心にして花の祭壇が飾られていたが、広い式場に座っておられるのは7人様だけ。その内のふたりは小学生で、故人のお孫さんであった。

導師をつとめられたご住職が「お念仏」を唱えられると、皆さんがご一緒に唱えられ、お孫さんの声が一際大きく、「お爺ちゃんのために」との純粋な心が伝わって来る。

葬儀式が終了し、弊社のオリジナル奉儀の後、私は、次のような言葉を贈った。

「私は、多くの方々のご葬儀を担当してきましたが、今日のように皆さんが『お念仏』をお唱えになっておられるご葬儀は初めてです。きっと、お爺ちゃんがお喜びになっておられることでしょう」

 そう言った時、お孫さんがニコッとされたのが印象に残っている。

 電話での問い合わせの中、家族葬形式は、二分化されていると言えるだろう。

ひとつは義理的会葬者の割愛、もうひとつは、ご家族だけで静かに心からお送りしようというケースで、前者には無駄な経費削減も背景にあるようだが、今日のご葬儀は後者のケースであった。

 開式からご出棺までの1時間。会葬者がいないということは、時間に余裕があることになる。お柩の蓋を開いてからの「お別れ」の時間、それは、故人と遺族にとって何よりのひとときとなろうし、我々業者が理解しながらも実現できない部分の解決ともなる。

 考えてみれば、1時間の葬儀なんて、誰が決めてしまったのだろうか。もっとグローバルに考え、遺族が中心となって告別の「かたち」を構築するべきだと思うし、そのアドバイスやお手伝いが出来ればなとも思っている。

 子供の死や事故死など、特別に悲しい葬儀は、会葬という第三者の存在があるから「ご出棺」が可能となるとも言われているが、そんな葬儀で、「ゆっくりとお別れが出来ました。出棺をしてください」と、悲嘆の遺族から言われる葬儀を考慮してもいい筈。

 「皆がそうしているから」「慣習だから」「それが式次第だから」

 そんな考えから逸脱しても許される筈。悲しみは万国共通だが、遺族が伝えたい思いはそれぞれ異なる筈。それを「かたち」にされることは悪いことではない。そうさせない心が間違っていると思っている。

 それが、自由葬という形式の原点なのかも知れないし、それらを具現化可能なプロの存在も求められてくることにもなる。

 ある高名な宗教者が「葬儀が見えなくなってきた」と解説されておられたが、私は、一般の方々に「葬儀が見えてきた」という現象のような気がしている。
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