2003-03-05

忘れられないご夫婦   後編   NO 363

二人の結婚生活にとって、将来計画に「めりはり」をつけて、どのように描くかという課題があった。オヤジの体力の盛衰も考慮し、40歳をボーダーラインとした。

 それまでの日々は、若さゆえに出来るアウトドアスポーツや、趣味に対する時間と費用を惜しみなく投入する。貯金はしない。

 オヤジは、後に新築した居宅にゴルフの練習用に使えることを基本とし、200坪の敷地を幸いに、打ちっ放し、グリーン、バンカー、20ヤード程度のアプローチ練習などが可能なように施行した。

 また、夏と冬には、どんな事情があろうと休暇をとり、一週間から10日を費やして、毎年、日本アルプスを中心とした夏登山。そして、冬スキーと温泉を楽しむことを目論見、実行した。

 40歳を過ぎると、体力相応に「油絵」「著名な作品展示会」の見て歩き。また、海外旅行などへと、趣味と楽しみを移行させていった。

 オヤジの定年後、自宅の離れにアトリエを建て、彼女は終生の習い事と決めた「この道」にのめり込み、死の直前までキャンパスに向き合っていた。

 平成12年、この年は、我々二人にとって、古希、喜寿、金婚と、三重の喜びにひたれる筈だった。油絵は、庭を開放して二人の作品展を設け、ちょっと豪華な記念パーティーと、価値あるイベントを企画した。

 30年間住み慣れた現在の地は、この1、2年の内に引き払い、大阪の市内に50坪程度のバリアフリー化された住宅を「終の棲家」とすることを決めていた。

  結婚節目の年に、モニュメントを残してきた慣行を引き継ぎ、1キロの金の地金を容れた桐ケースの蓋に一文をしたためたが、その「寿ぎの歌」が朝日新聞歌壇 に見事に入選し、いい記念になった。それは、「1キロの、黄金輝く共に生き、金婚喜寿の証に購ひし」という歌であった。

 オヤジは、ついでながらだが、年来の願い事であったことの実行を行った。それは、結婚当初に彼女に贈ることが出来なかった結婚指輪で、500万円を充てた。

  メモリアルイヤーとなるべき平成12年、彼女には過酷な運命が待ち受けていた。その年の後半、突如、暗転。5月に入院直後、ガン3期の宣告を受け、その 後、20ヶ月に及ぶ闘病生活を余儀なくされ、その甲斐も空しく、平成14年1月20日、72年と1ヶ月の生涯の幕を静かに閉じた。
 
 人間、夫婦愛こそが究極の愛である。「血は水よりも濃し」と言うが、血以上に昇華するものが夫婦愛である。愛とは生活の中でのたゆまぬ努力である。人が生活をしていくうえで、唯一信頼できるのが夫婦である。そして、人は死に向かって生きてゆく。

 オヤジにとって、彼女の死の悲しみを癒すには、長い時間を必要とするだろう。
                                      

 このオヤジさんは、平成14年9月10日にご逝去された。子供さんはなかったが、奥様の教え子達が連れてきた子供達を孫のように可愛がっておられたそうだ。

 西方の浄土で再会を果たされただろう。きっと奥様に「あなたって、弱い人ね。もっとゆっくり人生を楽しんで来たらよかったのに」と言われているような気がするが、「やっぱりお前がいないとダメだ」と答えられたかも知れない。     合掌
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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