2002-11-02

悲喜こもごも      NO 244

 1週間前から、娘と孫が里帰り、昨日の夕方、家族で友人の料理屋を訪れた。

 彼は、私の顔を見るなり、「今日の昼に生まれた。俺も爺ちゃんの仲間入りだ」と嬉しそうに言った。11月1日生まれ、男の子で母体とも至って健康であるそうでほっとした。

 食事を始めてしばらくすると、別の友人から電話があった。「伯父が亡くなった」とのこと。この友人の結婚式の司会を私が担当したが、その時に媒酌人をつとめられたのが伯父さんである。

 伯父さんの生年月日は大正時代の1月1日。逝去されたのが11月1日。なにか「1」のオンパレードのようで、奇異な心情に陥った。

 私のこれまでの人生にあって、「1」につながる出来事が多く、1に関する日は、何かにつけ謙虚にすることにしている。

 青春時代に起こした名神高速道路の事故が11月。手首を骨折したのが高校2年の4月1日。それから5年後の1月1日には、原因不明の発病から救急車で入院。この他にも挙げれば限がないほど多くある。

 今、23時35分。この原稿を打ち終わったら明日の伯父さんのナレーションを創作しなければならない。この伯父さんが私の年代の頃に、私がご両親の葬儀を担当したことも思い出す。

 仏教の説かれる無常観そのままに、深まりゆく秋の訪れに日本の四季の移ろいを思い抱きながら、伯父さんの葬送のマイクを担当しようと考えている。

 一人の生命が誕生し、一人の生命が終焉を迎えた。有為転変の教えにあって悲喜こもごもは世の習い。日本だけでも1日に3000人に近い生と死の現実があるし、地球全体に考て見れば20万人にはなる筈だ。

 時に喜びの花を咲かせ、憂いの雨に打たれて織り成す人生模様にそれぞれの異なりはあろうが、生を喜び、死を悲しむことは生物すべてが共有するべきもの。

 人としてこの世に生まれ、与えられた時を過ごし、人としてこの世を去る。
他人の死が、やがて自身に訪れる「哀れみ」であることを知った時、彼の人の終焉の意味も深まりゆくものだろう。

 初孫が誕生した彼の顔は、これまで見せたことのない表情を感じた。その日に初めて見た初孫の顔、そして、労ったであろう娘さんへの言葉など、命の誕生を現実として体験することは人生に於ける貴重な喜びの経験。

 殺伐とした社会情勢に、人には生かされる権利と誕生の瞬間があることを忘れているように思えてならないこの頃である。

 お祝いと香典を包む我等の年代。団塊世代である私は、そんな接待交際費がいよいよ増えてきた年代とも言えるだろう。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net