2006-02-19

消えた温泉旅行  NO 1429


 兵庫県に出張していたチーフ・パーサーが帰社、お通夜が問題なく進められたと報告を受けたが、司会を私が担当することになった。

彼女が持ち帰った取材表を確認するとギッシリ、1時間ぐらいナレーションをしなければならないほど書き込まれている。どれを優先するかが難問題、そこで方向転換して司式バージョンで打ち込むことに。

 このバージョンの場合はお寺様との打ち合わせが重要、間違いなく驚かれることになるので打ち合わせ時にご海容を願うことになる。しかし、チーフ・パーサーの許可が出るかが心配も。

 大都市に於ける葬儀、そこで迎える宗教者の人数が激減傾向にある。10年前頃、自宅葬で2、3名が当たり前だったお寺さんの人数、それらは葬祭式場の増加と共に減少し、お独りだけというケースが多くなってきた。

 弔問、会葬という場で参列者の目に映る既成事実の影響は大きく、「**さんもお独りだったから」という考え方が表面化してくるのも現実、片鉢、両鉢などという宗教儀礼に定められた正式な人数が揃えられない葬儀、そこに一抹の寂しさを覚える昨今である。

 振り返ってみるとご多数のお寺さんが入られた体験がある。最高は30人の雅楽をバックに230名のお寺さん達がつとめられた太平洋戦争全物故者追悼式、次に真言宗のトップにおられた方の葬儀、入場時に数えていたら93名だった。

 全国的に著名な酒造会社の社葬が九州で行われた際、法中27名ということで準備していたが、祭壇を設営したステージに並列で椅子を並べたら24名が限度、お寺さん達がご相談され3名の方がご遠慮されるという珍しいケースもあった。

  浄土宗の引導作法の中に「下炬(あこ)」という儀式がある。これは、導師が手にされた2本の松明(たいまつ)の内「厭離穢土の意味を表す」と言われる1本 を捨てられ、残った1本で一円を描いた後に「下炬」の偈をつとめられるものだが、この儀式作法が生まれたと言われる「故事」に「出家は九族の天に通ずる功 徳」という考え方が秘められ、聖徳太子の十七条憲法にある「三宝」即ち「佛・法・僧」の「僧」の本義を物語るエピソードのような気がしている。

 これは、盂蘭盆会の語源にある物語にも通じるが、「僧」を多く迎えればそれだけ供養と功徳になるという教え、それらは日本人の宗教観稀薄と共に何処かへ忘れられてきている寂しさ、そこに殺伐とした社会の現実が垣間見える思いもしている。

  命が軽んじられているような気がする。被害者になるな、加害者になるなと言い続けてきた私の哲学も髪の毛と同じで薄くなってきてしまったみたい。学校教育 の場でそれが出来ないならば、せめて悲しみ葬儀の場で伝えたいというのが私の思い。だから「司式」バージョンと「命の伝達」いう世界を発想した。

 命の伝達、供養、功徳というキーワードで明日の葬儀を担当申し上げる。原稿を打ち上げてから「独り言」を始めたが、時計を見れば午前1時を回っている。明日の体力温存を考慮してこれからバスタイム。残念だが銭湯が閉店時間となったから。

ア メリカに在住する娘からのメール、そこに最低気温がマイナス27度とあった。妻の誕生日ということで「温泉旅行にでも?」と書かれてあったが、明日は兵庫 県に出張し、終えたらすぐに帰社して夜の会合セッティングが待っている。母ちゃんのご機嫌に配慮しながら1日があっという間に過ぎてしまうだろうと予想し ている。
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