2002-12-20
訃報記事に思う NO 289
新聞の訃報記事を見ていると、「葬儀は行いません」「遺族の意思により自宅は公表しません」「近親者だけでの葬儀を行いました」など、10年前頃にはなかったケースが目立って多くなってきている。
また、大手企業の役員の訃報記事があっても、その後の社葬告知をする黒枠広告が目立って少なくなり、社葬をされる場合でも式場が「ホテル」というスタイルが増え、葬儀、告別式などの文字が消え、「偲ぶ会」「お別れの会」という風に変化してきている。
これらは、この「独り言」の過去ログに何度も表記してきたことが顕著になってきただけのことだが、今後いよいよこの傾向が強くなってくるだろう。
そんな社会風潮の中、弊社が担当した葬儀で思わぬ体験をすることになった。
弊社が行う通夜と葬儀は、他社にはないというよりも「出来ない」というオリジナルスタイル。
特にホテルや市立斎場の「天空館」を式場とした場合には、会場空間全体のプロデュースが可能となり、通夜では、ご導師の入場前とご退出後に「奉儀」と人生表現を主体とする「偲ぶひととき」が行われている。
通夜の司会を終えた時、一人の方が「名刺をください」と司会席にやって来られた。
その時の会話は、ただそれだけ。
やがて次の日、その方は、葬儀にも参列されておられ、ご出棺の後、また、私のところへやって来られ、ご伴侶を半年前に亡くされた葬儀のことをお話された。
伺ってみると、その葬儀は上述した形式で行われたそうで、誰にも知らせず、家族と主だった親戚と友人だけで自宅で送られたということ。その動機となったのが我々葬儀社への不信感であった。
「こんな葬儀が出来ると知っていたら、絶対にお願いしていたのに」
そのお言葉は、送られた奥様に対する「申し訳ない」というお気持ちが感じられ、後悔の発生は、やがて「心残り」という状態に陥って行かれたようだ。
納棺をして祭壇を設ける。そこにお寺さんを向かえてお経を頂戴する。それだけが葬儀と勝手な思い込みをされておられたその方に、私は、何と言葉を掛けるべきか躊躇したが、 こんな時にお返しする方策は、ただひとつ。一周忌の「偲ぶ会」ということ。
そう応えた時、その方の苦悩の表情が少し明るくなった。
この経験で、私は、葬儀を終えてからでも「心残りが増える」ことがあることを学び、葬儀社としての奥深い責任を感じることにつながった。
さて、冒頭の新聞の訃報記事だが、経済面や社会面に時折見かける「**氏の祖父」とか「**氏の母堂」など、著名人の家族の訃報が伝えられていることに、いつも疑問を感じ、<そこまで必要なのかな>と悩んでいる。