2002-06-09

たった、ひとり   前 編    NO 100

今日は、発信の日より100日目を向かえ、「NO」が3桁になりました。

 振り返ってみると、書くべきではなかったと反省するテーマもありましたが、後悔していることはありません。

 これがいつまで続くことになるのかは分かりませんが、出来るだけ、生きている限り挑戦したいと思っており、それは、私の生きた「証」となって、スタッフや後継者へのプレゼントとなればとの願いと思いも託しています。

 これまで体験した葬儀の中で、印象に残っていることは少なくありませんが、今日は、私に「ご遺族と共に」という理念が誕生するきっかけになった葬儀を紹介申し上げます。

 真夜中の事務所に、近所のおばさんがやって来られ、「とにかく、私と一緒に来て」とだけおっしゃる。葬儀の依頼なら持参しなければならない物もあるし、そのことを確認すると、「あなたを見込んで頼むことなの。お葬式だけど、今は、とにかく一緒に来てよ」。それだけ。
 
 おばさんは、自転車。私も自転車で、とにかくお供をすることにした。

 相手様のお家は、おばさんのご自宅のすぐ近所で、寝静まる深夜の時間、一軒だけ電気のついたお家がそうであった。
 
 「ここよ」、それは、密やかな声だった。自転車を立て掛ける際の行動も、日頃のおばさんらしからぬイメージを感じる。

 静かに入り口の扉が開けられ、招かれて中に入った。平屋のお家で、玄関の土間、4畳半、6畳のお部屋が、このお家の空間であった。

 「連れて来たからね。任せさない、もう安心よ」。おばさんが声を掛けられると、未成年らしい女性が涙を流しながら登場され、4畳半の畳の上に正座、所謂「三つ指」を着いて、無言で深々と頭を下げられる。名刺を出せるような雰囲気は全くない。

 「母の葬儀をお願いします。何も分かりませんので、母が最も信頼していたおばさんにご相談いたしました。よろしくお願い申し上げます」

「心配いらないの、堅苦しい挨拶は抜きよ。まだ、私以外の人は誰も知らないのだから、安心しなさい。私が信頼する葬儀屋さんが、この人。なんでも相談したらいいのよ」

 おばさんに促されて上がることになったが、奥の部屋には布団が敷かれ、上品な白髪女性の安らかなお顔が見え、その横に眼鏡が置かれていた。

 私が最初に言葉を出したのは、「ご親戚様は?」だった。

 「私は、母一人、子一人の二人家族で、母を失って、この世に身内と呼べる人は誰もありません」

 そこで、おばさんの解説が入った。それによると、お父様は彼女が生まれて間もなく亡くなられ、お母様が和裁の技術を生かされ、呉服屋さんの下請けとして生計を立てられ、彼女は、高校を卒業後に就職されてから、まだ数ヶ月という状況が分かった。

 数年前から病気がちだったそうだが、仕事を毎日欠かさず、「娘を成人させるまでは」との気力も、ついに病魔に尽きてしまったという、テレビドラマの悲劇のような中に私が入っていた。
 
       明日に続きます
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