2002-06-29
苦い思い出 NO 120
役職の立場にあるだけで、弔辞を読まなければならないことも多いだろう。
義理的な場合は、秘書の方が代筆されることも多いが、そうでない時は、ご本人自らがご苦労されるのが弔辞である。
どんな企業の総務部、役員室にも「挨拶の常識」や「冠婚葬祭の挨拶」というような本が、いざという時の為に備えられているようだ。
最近ではインターネットの情報発信により、この世界も信じられないような発展があり、参考となる例文が存在している。
弊社HPページの「お葬式大百科」にも弔辞のコーナーがあり、多くのご訪問をいただいているようである。
朋友や親友の死に対する弔辞の創作は、本人の悲しみも強く、遺族との交流もあるところから自然に完成するし、その内容も充実していることは確かで、拝聴される方々の感動を呼ぶことにつながるだろう。
プロとして提案したいことは、義理の立場での弔辞を依頼しないことと、依頼されたらお断りをされること。
弔辞のひとつでもなかったら「格好が付かない」というような社葬。そんな考えの社葬なら、社葬そのものをお止めになるべきだと考えている。
この世から去られた人への基本的な礼節、それは義理の排除であり、自身の本心で参列の判断をするべきもの。そんなことからすると、近い将来には「社葬」ということは消滅してしまうと確信している。
様々な世界で「無駄」の割愛が叫ばれているが、葬儀の世界では「義理的会葬者」の割愛。それが今後のキーワードだろう。
この考え方に、宗教者の方々は抵抗感を抱かれるようだ。なぜなら、通夜、葬儀を布教の機会とのお考えもあるからだ。
確かに義理的参列者であっても、「命の尊さ」「死の現実に自身の生を知る」ということは重要であるが、それならば納得を生む説得力ある説教のパワーが重要である。
「このお寺様は本物だ」。そんな宗教者のお説教は、やはり凄いものがあるし感動するものだが、こんな方々に共通することは、焼香の回数などの「作法」に触れられないということで、「死」「生」「命」「愛」などを中心にお話されておられる。
あるお寺様のお説教で、「優しいという文字は、人を憂うと書くのです。他人を憂うことが出来るから優しいのです」というお言葉があったが、すぐにメモしたのは言うまでもない。
さて、ある時、お偉い方から弔辞の創作を頼まれ断れず、故人の情報とご本人の思いを取材し作成したが、これがとんでもない結果となり、それから私は、弔辞の代筆を一切しないようになった。
その葬儀は他府県で行われていたが、弔辞を読まれたご本人に対して、葬儀の担当をしていた司会者が、「これは、大阪の久世さんの作でしょう」と言ってしまったからだ。
私は、その司会者の方とは一度も会ったことはないが、講演テープなどの海賊版が蔓延っていた当時の苦い思い出となっている。