2002-05-24
殺伐とした社会の到来 NO 84
随分昔、テレビの特集で、東京大学進学を目指す名門中学校の生徒達へのインタビュー光景が映し出されていたが、その時の彼らの発言に、衝撃的な恐ろしさを感じたことを覚えている。
<勉強しないで、遊んでいる友達をどう思いますか?>
「馬鹿な連中です。出世することはないでしょう。その時に気付いても遅いと思います」
<同級生が風邪や怪我で休んだらどうしますか?>
「敵が1人ダウンした。それはチャンスと思っています」
そんな発言を堂々とマイクに向かって応えていた子供達。彼らが日本の重要なポストに着任した時の将来を危惧したが、そんな彼らは、今、キャリアとして中枢で働いている年代である。
教育の歪み、それは、今の社会に顕著な例がいっぱい溢れている。殺伐とした事件の発生、自殺の増加、自社利益第一主義の企業の問題、産業廃棄物の放棄や危険物の垂れ流しなど、自分の孫や将来のことを慮る考え方がまったく希薄してしまっており、嘆かわしい限りだ。
こんな潮流は、我々葬儀の世界にも姿を見せつつあるので淋しい。
葬儀の予算を決定される時、「これだけしか準備が出来ないのです。何とかお願いできませんでしょうか?」なんてお言葉を聞くことは、本当に少なくなった。
そのお言葉には<親の最期の儀式を少しでも立派に>という、あたたかい心を感じたものである。
最近はどうだろう。「死んだら<死に金>、焼いてくれるだけでもよいのだが、まあ、世間の目もあるし」というような、寒々とした言葉を故人の枕元でされることも少なくない。
こんな人達が「お墓」や「お仏壇」を購入されることはないだろう。しかし、それは、何れ自身の子供たちに受け継がれる家風となってしまうことが確実で、家の外での人格評価の結果は、誰もが想像出来る筈である。
「知的・美的・倫理的・宗教的」と4つある情操で、「倫と宗」の欠落が、社会に致命的な影響を与えるという事実認識を求めたいところだが、その「宗教」という世界でも無宗教の風が吹き荒れてきているから世も末である。
研修会の問題提起のテーマに、ニューヨーク・テロで息子さんを亡くされたという悲しい葬儀のことがあった。ご遺族は無宗教を望まれたが、ご親戚のご意見からお寺様をお願いすることになった。
そのお寺様は、お説教の中でキリスト教とイスラム教の戦争という問題を中心に、テロに対する強い怒りを語られ、悲しみに暮れるご遺族には耐えられない時間となって、お寺様をお呼びしたことを後悔されたそうだ。
メンバー達は、それぞれが宗教者の立場になって真剣な討議を行なった。そして、次のような結論となった。
「キ リスト教、イスラム教の戦いと言っても、宗教に変わりはありません。それがどうしてテロという事件になってしまったのか残念でなりません。私も仏教者とし て、ご遺族、そして、参列の皆様に対して本当に申し訳なくます。衷心よりお詫び申し上げます。これから、ご祭壇に向かって、宗教者の一員として、息子さん に心からお詫び申し上げます。皆様もご一緒に、合掌をいただけますようお願い申し上げます」
ニューヨーク・テロ、そして世界の「犠牲」という名のつくすべての故人に、改めて手を合わせます。 ・・・・合掌