2002-06-23

郷 愁   NO 114

私は、8歳まで三重県の伊勢で育ち、小学校の1年、2年を分教場に通っていた。

 伊勢は母方の地で、今でも古い家が残っているが、3歳半の9月に襲来したジェーン台風で、屋根が完全に吹き飛ばされた恐怖の体験を鮮明に覚えている。

 烈風というべき台風であったが、屋根が吹き飛んだ原因は他にあることを後年に知った。
 それは、母の兄が腕のいい建築家で、釘を一本も使わない建築手法の家だったからだ。

 数日前、懐かしい文字を新聞で見つけることになった。それは、「夜行日帰り」のカメラ紀行という旅行企画の広告で、「伊勢・伊雑宮 御田植祭りを撮ろう」との見出しがあった。

「伊雑宮」とは「いざわのみや」と読み、私は何度もこのお祭りに親に連れられ観に行ったもので懐かしい。

 因みに私が通った分教場も「いざわ」小学校で、この「お宮さん」から歩いて15分位のところだった。

 新聞広告に次の紹介が記されていた。

「日 本三大御田植祭りの一つで、毎年この日に伊勢の磯部で開かれる御田植祭りの撮影会です。行事は、田に立てられた大竹を裸男たちが倒し、どろんこになって奪 い合う「竹取り神事」から始まり、早乙女と田道人(たちど)が笛や太鼓で賑やかな音に合わせ苗を植える「御田植神事」、最後に伊雑宮までの道中を歌いなが ら練り込む「踊り込み神事」があり、それぞれシャッターチャンスでいっぱいです」

 この御田植祭りだが、永い歴史の流れの中に、亡くなった私の祖母も「早乙女」をつとめ、私の姉が「早乙女」として「田」の中にいた姿も焼きついている。

 その当時、もうひとつ心に残っている思い出がある。学校で竹の棒で日の丸の旗を作ったことで、ある日、現在の近鉄志摩線に沿った道路に面する小高い丘に並び、車列に向かって旗を振った。

 車は、アンタッチャブルに登場するタイプの車で、小豆色だったと記憶しているが、昭和天皇の行幸であられた。

 その時かどうかは曖昧だが、昭和天皇がご昼食をお召しになられた料理屋が私の親戚で、その店は今も活気を見せており、伊勢方面に出掛けた時には「おじゃま虫」という迷惑を掛けている。

 皇室に関係するお話を、こんな「独り言」に明記することは恐縮の極みだが、ある葬儀で最も緊張した出来事があった。

 普通のご家庭の葬儀で、極めて普通のお通夜が行なわれていた。その葬儀は、ある瞬間から特別な葬儀への形式変更を余儀なくされることになった。

 故人は、昔、宮内庁におつとめで、お通夜の終了後に、皇室からの「御供物」が届けられることが解ったのである。

 御供物は、葬儀の日の午前中に「御使者」によってお届けいただくことになったが、役所、警察など、ものものしい態勢で進められたが、私達もご祭壇の中に別格のスペースを設けることになり、一睡もせずに万端の打ち合わせを行なったことも懐かしい。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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