2002-04-12

扉の前に立って

「九十九折の人の世の、九十九折の喜び悲しみの一つ一つを辿れば、彼の人は何と様々な歳月を歩んで来られたのでしょうか」

そんなナレーションをやったことがあった。

人はこの世に生を享け、人に出会い、長い人生に思い出を刻み、やがて諸行無常の理(ことわり)にその生涯の幕を閉じ逝く。

我々日本人が「葬送」をイメージする時、「小高い丘を柩と共に歩みゆく情景」を思い浮かべ、郷愁として「野辺の送り」が心の根底にある筈だ。

大切な人の「死」、それは極めて自然の摂理であっても、悲しみの涙を伴うものだが、この涙には「惜別」という「去来する思い出」だけではなく、「死」が何れ自身に訪れるという哀れみがあることを忘れてはならないと考えている。

日本の葬儀は「佛教」のうえに成り立ってきたと思われがちだが、決してそうではなく、「儒教」の「先祖供養」うえに成り立ってきたという学説を持たれる専門家が多い。

これまでの葬送の文化にあって、佛教や神道の慣習で「これは素晴らしい」と思っていることがある。

それは仏式の初七日から満中陰、神式の十日祭から五十日祭で、悲しみの遺族が故人のために行なう礼節作法が、宗教者や参列される方々への対応に追われ、失礼な表現で恐縮だが、忙しさに紛れるという効果につながっているからだ。

しかし、大切な人を失った方の淋しさや本当のお悲しみは、この後からやって来ることをご理解いただきたいものである。

私達は、お悲しみの強いご遺族に、一周忌、三回忌などにお花を届けることがあるが、そんな時にお話を伺うと、これらのことがよく理解出来、特にお子様を亡くされた方が、何年経っても「子供の年齢」を数えていることなどに顕著である。

協会メンバーの掲示板で、「悲しみって、何だろう」という議論を交わしたことがあり、「愛があるから悲しい」という結論に達し、そこから前進することは出来なかった。

こんな重要な問題を、「なんと単純な答えに結びつけるのだ」と、ご叱責を受けるかも知れませんが、複雑な哲学として専門家を交え、真剣に取り組んでも難しい問題であったことは事実で、また、論戦を行なって見たい永遠のテーマであると思っている。

現在、協会の掲示板では「お釈迦様」についての勉強会を行なっているが、「お釈迦様」が悟られた上記に関係する「四苦」の問題、我々のレベルでは、まだまだ入り口の扉をノックする前の段階であることは否めない。

「愛」と「癒し」の理念を共有する夢職人の団体「日本トータライフ協会」、その活動は始まったばかりである。

結びに、私の好きな言葉を下記いたします。

「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、やさしくなるかのどちらかである」
                      ・・・ウィル・デューラント
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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