2003-09-16

道頓堀と『涙』    NO 548

毎日、全国で多くの方々の葬儀をメンバーたちが担当している。100歳の方もあれば0歳の赤ちゃんもある。

 死は、すべて悲しいものだが、幼い子供の葬儀は、式場から逃げ出したくなるほど悲しいもの。その前にしなければならない打ち合わせなんて、もう、たまらない残酷な世界。

<逃げたらもっと悲しくなる。遺族の悲しみを考えろ。後悔することになるぞ>

 そんな思いで耐えながら共に涙を流し、当日にマイクを握っているが、火葬場に着いて大きな台車に乗せられたかわいい柩。それを目にしたらきっと人生が変わると思う。

 メンバー専用掲示板の中に、そんな思いを綴った書き込みがあったが、これらは葬儀に従事するものの宿命。

 「辛い思いをしただけ他人にやさしくなれる」という言葉があるが、それを心に齢を重ね、いつしか自身が送られることになるが、葬儀社とは葬儀<者>なのである。

 朝から、今日の葬儀のナレーション原稿を打ち込んでいたが、ふと、側を通ったスタッフから、「社長が死んだら、誰がナレーションを創るのですか?」と言われ、ドキッとした。

故人の年齢は、私と変わらない。子供や孫の年齢もまったく似ている。自身が送られるようなイメージでマイクを担当することになった。

さて、冒頭に書いた幼子の死の悲しさ。「お母さん、私が死んでも泣かないでね。悲しまないでね」と言って、先天的な病で死を迎えた少女の悲しい葬儀の話を読んだ。

 こんな悲しいドラマがあるだろうか? 道頓堀に5000人以上の人が飛び込む裏側で、そんな現実もあるのだ。

 生きていることは素晴らしいこと。でも、生かされていると考えたら、もっと人生が変わるかも。生きている喜びを表現することも素晴らしいことだが、世の中に悲しいことがいっぱいあることも考えたい。

 涙の成分が血液であることを、メンバーから教えられたことがある。赤い血液が透明になるまでのプロセスに秘められたもの、それは、まさに「命」のドラマ。

 人は、喜び悲しみに涙を流すが、涙が自身の「生」を守ってくれる大切なものだと知った。

 タイガース優勝。歓喜の涙の光景が報じられていたが、折角生まれた透明の涙を、道頓堀で汚してしまうのが勿体ないような気がするし、生きている内、澄んだ涙が流せる自分でありたいと願う今日の日だった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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