2024-07-04
休載から再開 NО 10080
長い間の休載になってしまった。先週の火曜日、医院へ行って処方箋を貰ってあからいつもの薬局に行き、ゴルフ仲間の「みたらし団子店」へ行ったら休業日で、仕方なく所用のあった信用金庫へ立ち寄って振り込みを済ませて帰宅する途中に気を付けていたのに躓いて転倒してしまい、通りすがりの二人の女性に助けて貰って起き上がったのだが、それから50メートルもしない内にまた躓いて転倒し、二人の若い女性に助けて貰って立ち上がろうとしていたら商店街のカーペット店のご主人が通られ後ろから支えて貰ってやっと立つことが出来た。
そのご主人は我が家の2階と3階のカーペットをお願いしたご縁があったので、幸運だった詩、二人の女性はインドネシアの方だったみたいで「サンキュウ」だけしか通用しなったみたいだった。
自宅に戻ってリハビリに行く準備をしてから少し時間があったので、ベッドで床になろうとしたら転倒してしまい、ファーの肘を置くところにある木の部分で思いきり左胸を強打し、しばらく息が出来ない状態になってしまい「やばい」と感じた。
何とか息が出来るようになったが呼吸をするだけ激痛を覚え、リハビリに行ってから事情を話して運動はしなかったが、帰宅してから痛みが酷くなり、朝まで眠れなかった。
次の日、医院へ行こうと思ったら休診日で、仕方なくタクシーに乗って大池橋の共和病院へ行った。形成外科で診察を受けレントゲンを撮ったが、骨折の所見はないが、伊丹があるところからすると確認できない骨折が有るかもしれないので「鎮痛剤を出してくれた。
序に躓いて転倒するので左足を診て貰ったら、予想もしなかった問題が発覚した。それは、
被だろ脚の指を下に動かすことは出来るが、上にあげることが出来ないということで「躓いて当たり前」だと分かったからである。
松坂で転び、阿部野橋駅のホームで転倒して膝を強打した際に「神経系統」に不具合が生じたのかもしれないみたいで、次の日にレントゲン、CT、МRĪ撮影を受けるように勧めあられ、次の日の診察の前に電気による神経検査を受けるように決まった。
撮影室の前で座っていると、車椅子の高齢女性が通られたが、その方は私と同じ李羽広仲間の方で互いがびっくりしたが、リハビリの先生から「入院された」と聞いていたのことを思い出した。
電気の神経検査は大変で、針を刺して電気を流すのだから想定外で、恐怖感から体を動かせるので叱られた。
診察総合の結果だが、過去の患った脳梗塞の問題もあるので左足の神経麻痺が出ているかかもしれないそうで、退院後8年間も左半身の温覚と痛覚が麻痺していたことを思い出した。
銭湯で湯船に入っても左半身が「水風呂」に感じるのだから気持ちが悪かったし、医院で採血される際にも左腕なら痛みを感じなかったのだから不思議だったが、それらが正常に戻ったのは昨年の秋の頃だった。
取り合えず1か月の様子を見ることになったが、歩行時に転倒する危険性があるので外出を避けなければならないし、自宅の中でも躓くのだから恐ろしく、今日来宅してくれたヘルパーさんに話したら「気を付けてください」と言われた。
松山の同業の友人からプレゼントが届き、大好物の帝国ホテルのスープがあったので早速いただいた。
もうお中元の時期である。一年なってあっという間であり、それは最近にひしひしと感じるようになった。妻が亡くなってからもう半年経ったことになる。
猫が続けて死んでしまったので「ロス」に陥り、10日間眠れなかったこともあったが、
悲嘆の研究をして講演まで行っていた自分がまさか「ロス」を体験するなんて想像もしなかったが、現実の受け入れには時間が必要だということを学んだ中で、テレビ番組の中にあった「居酒屋新幹線」の小松編で登場した女性の語った「思い出とはどうにもならないことをただ懐かしんでいるだけ」と言われた台詞がすっと溶け込んでくれた。