2002-08-03

その通りです   NO 154

異業種交流会の第二部で、隣席に座った人と名刺交換をして、互いに苦笑しながら話し合うことになり、2人だけで大いに盛り上がる時間を過ごすことになった。

 相手はある病院の内科医で、私が聖路加病院の日野原先生のことを持ち出したことから、彼が立ち会った多くの臨終の場面について、興味深い話をしてくれた。

 医者と葬儀屋が生死について話し合う。円テーブルで8人席となっていたが、我々2人は、他の人には失礼であっただろうが、誰も割って入るようなイメージでなかったようで、中には真剣に耳を傾けておられる人物もおられた。

 命終の近い患者さんには、当然、家族が付き添っている訳だが、「危篤状態になれば、すべての家族が病室にいたという時代は変わった」と、彼が言ったことにびっくりした。

 彼の分析された持論によると、携帯電話のなかった時代は、それぞれの家族への情報発信基地としては病院と家が中心になっており、病人を抱える家族達の行動範囲も狭かったそうだ。

 それが、どうだろう。携帯電話の普及発達により、それぞれが直接に情報入手が可能となり、仕事やプライベートな世界での行動半径が広がり、病室に付き添っている延べ時間が激減してきたと言うのである。

 私達が学生であった頃、深夜に友人から電話があれば、ベルの音から家中の者に知れ渡ることになり、親からどやしつけられたものだが、携帯電話は24時間自身の手にあり、誰に知られることもなく布団の中で会話が出来るのである。

 外に出ればコンビニを中心に24時間営業の店が増え、若者達で賑わっている。何かあれば携帯電話で繋がっているとの安心感もあるだろうが、家族という世界での「絆」とはかけ離れてきているように思えてならないところだ。

  核家族と呼ばれる社会にあって、別居している子供達。親の葬儀で喪主になった長男さんから、「連絡はすべて携帯電話で対応します。自宅の電話はオープン化 しないにように」と念を押されたこともあったが、情報社会の発展は、人の社会の重要なものを壊していくのかも知れない。

「医学の道を歩む人は、宗教学も勉強するべきだ。それらを総合すると<人間学>ということになる」 

 上記は、葬祭哲学の第一人者、当協会の杉田副理事長の言葉であるが、若いメンバー達は「死」を学び「生」を知るという仕事に従事しながら、研修会のグローバルな研鑽を通して「人間学」を修得し、そこでの結論が「愛」と「癒し」の活動コンセプト誕生につながったのである。

 弊社に「人財」と呼ぶべき女性スタッフが存在している。彼女は若いが看護婦の体験があり、私が「ドキッ」とする発言を何度も耳にして反省しながら感謝をしている。

 そんなひとつが、寝台自動車によるご遺体の搬送時の問題で、次のような指摘があった。

「臨終から、<ご家族>は<ご遺族>になられますが、その時点での故人は<ご遺体>であってはならないのです。<患者様>の言葉表現の方が良いと思います」 その通りです。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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