2002-05-08

葬儀変革の社会潮流     NO 68

儒教精神の稀薄は、宗教離れと言う傾向に顕著となり、葬儀にあっても無宗教の風が強く吹き始め、その背景には、昨日のブライダルに見られるように個性化、多様化の具現願望が秘められていることは確かなようだ。
  
「故人の人生表現をして欲しい」との要望は高く、「宗教者のご意見を伺ってから」との中立的な立場での対応を提案すると、その大半が「出来なかったら、無宗教で結構です」とさえ言われてしまう現実。

宗教者の方々には、こんな社会の意識変化を是非、真剣にお考えいただきたいと願い、過日の新聞記事「檀家であるが信者でない」という言葉の恐ろしさを思い出しているところです。
 
ご遺族や葬儀委員長の要望から、故人の生い立ちナレーションを創作することが多くありますが、できるだけ「宗教」と「命」をコンセプトにした草稿に取り組んでいます。

し かし、式次第に組み込んでいただくためには宗教者のご了解を必要とし、打ち合わせを行なう訳ですが、大半が、「そんなものは寺院が入る前に済ませなさい」 「寺院が下がってからやればよい」とのご意見であり、時には参列者の大半が来られていない時間帯に行なうこともありますが、「皆さんに聞いていただけた ら、もっとよかったのに」と言われるご遺族のお声が強く、正直に申し上げて苦悩いたしております。

一人の方の人生を言葉で表現することは 簡単ではありません。故人やご遺族の「お心残り」だけでも取り上げたいと考えても、「ナレーションは、何分だ」「2分ぐらいに出来んのか」と言われるお寺 様のご意見、宗教者が葬儀で最も重要なご存在であられることを誰よりも理解していても、こんな社会背景の中、何らかの意識改革も必要ではと考えてしまうこ の頃です。

昔、写真技術が向上し、祭壇に「ご遺影」が飾られることになってきた時代、祭壇に「遺影は不要。置くな」とのお考えのお寺様が多くおられました。地方に行くと、今でもそんなお考えで、頑なに「作法」を強制されているケースに出会うことがあります。

宗教の信念、教え、作法は絶対的に重要で大切でしょうが、今、目前に悲しみにくれるご遺族の不幸を、少しでも不幸でないようにとのお考えも重要ではないでしょうか。

全国のメンバー達の交流から、様々なお寺様がおられることを知ることになりました。

お通夜で行なわれた感動のご法話も、いくつも教えていただき嬉しく思っています。
 
ある真言宗の高僧が導師をつとめられた時、葬儀社がご本尊を間違って「南無阿弥陀仏」のお軸を掛けてしまったことがあり、式中に気付いた責任者が、葬儀の終了後、平身低頭に謝罪を申し上げたところ、その高僧は、次のようにおっしゃられたそうです。

「阿 弥陀様にもご来迎いただいて結構なことではないか。線香が、ローソクが、花が、そんなことも小さなこと。私は導師をつとめる宗教者、何もなくても故人を送 ることが出来る。戦地や砂漠で亡くなった方ならどうする。何もないところで葬る訳じゃ。これでないといかんということでは小さい。もっと心を広く持とうで はないか」
 
研修会で、このお話しが登場した時、「導師」とは何か「宗教者」とは何かという、大きなテーマをお与えいただいたような思いがいたしました。
 
 また、一方に、「私と葬儀社さんで、故人がどんな立派な人生を過ごされたかということを表現しようではないか。何でも良い、アイデアがあれば一緒に考えよう。これからは、遺族が癒される葬儀も重要だ」とおっしゃられたお寺様もおられました。

その葬儀は、時間が20分ぐらい長くなる設定でおこなわれましたが、ご遺族、参列者からどれだけご賛同のお声を頂戴したかがご理解いただけると思います。皆さんが特に感動されたことは、導師様が故人に呼びかけるようにしてお話しをされたこと。

「檀家ではないが、住職の信者になる」ということも起きつつある時代なのです。
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