2002-12-14

衝撃の記事    NO 283

12月10日の毎日新聞朝刊の1面に、下記の驚く文字が見出しとして記載されていた。

 祈り ゛公認 ゛ 浄土真宗本願寺派  「宗教の原点」―― 否定の歴史見直し

 ルネッサンスやマルチン・ルターの歴史事実を飛び越すような革命的なこと。
私は、この意識改革的なことは、政治の世界で新しい内閣が発足し、総理が突然「税金を一切なくします」と宣言したぐらいに凄いことだと思っている。

 我々葬儀に従事する者は、浄土真宗の教義の理解が不可欠で、これまでに指導してきた多くの司会者達に、浄土真宗独自の言葉表現の重要性を伝えてきていた事実がある。

 この独り言を訪問くださる方には、葬祭業者や宗教者の方も多くおられるようで、誤解が生じないように、ここに新聞記事の原文を記載させていただくが、著作権の侵害や勝手な応用との問題があれば削除ということでご理解願い上げます。

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記事原文
 合格祈願や無病息災といった現世利益を求めないため、「祈らない宗教」とされてきた浄土真宗本願寺派(京都市下京区、本山・西本願寺)の教学研究所が、「祈り」について「宗教の原点であり本質だ」と゛公認 ゛する見解を示していたことが9日、明らかになった。
 浄土真宗は宗祖・親鸞聖人の時代から、現世の欲望から来る祈りを「不純な動機に発する行為」と否定してきた歴史がある。門信徒数公称1000万人、末寺1万を誇る国内最大の伝統仏教教団の変化が、宗教界や他の真宗門信徒らに与える影響が注目される。
  宗派の国会にあたる定期宗会で、祈りを否定する考え方に疑問を投げ掛ける質問に対し、゛内閣法制局長官 ゛ともいえる教学研究所長の大峯顕・大阪大名誉教 授(宗教哲学)が答弁。「『祈り』とは聖なるものと人間との内面的な魂の交流であり、あらゆる宗教の核心。『祈り』の概念は現世利益を求める祈とうよりも 広く、祈りなくして宗教は成り立たない」と明言した。
 浄土真宗では、阿弥陀仏への感謝の心で念仏を唱える時、浄土に往生して仏になることが決ま るとされる。信心や修行など人間側の力(自力)を超越した阿弥陀仏の力(他力)が教義の根源にあるため「他力本願」の言葉が生まれ、「健康をお祈りしま す」といった表現でも「念じます」と言い換えるのが正しいとされてきた。
 しかし、世界規模の宗教間対話が行われる時代の流れが、変化を促した。他のあらゆる宗教が「祈り」を持つ中で、大峯所長は「(真宗では)祈りの概念を論理的に整理してこなかったため矛盾感が表面化してきた」と説明。
「言葉の表面的な意味で『真宗は祈らない』と単純に割り切るのは教条主義だ。死への恐怖といった人間の根源的な問題に答えず、『現世利益は求めない』と言っても説得力がない」と話す。

宗教評論家の丸山照雄さんの話
  浄土真宗は独自性を強調するために「祈り」をあえて狭義にとらえてきたとも言える。言葉にこだわり過ぎれば、「一般の日本人に通じないばかりでなく、外国 語に翻訳する際に支障が生じ、込められた精神が届かなくなる。その意味で、教学研究所が「祈り」を認めたのは大きな一歩だ。
                                 以上 記事から
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 これは、大変な問題である。まさに革命的な歴史の変化の瞬間とも言えるだろう。
 東本願寺、仏光寺、高田派など10派それぞれのご本山が、今後、どのようなお考えを表明されるのだろうか。

 西本願寺は1回。東本願寺は2回という焼香作法の異なり程度ならまだしも、教義の根本的な変革となれば簡単な問題ではなく注目されるだろうし、また、その解釈によって、我々の司会のトークやナレーションの創作原稿に大きな変化が生じるのも事実である。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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