2002-07-30

新聞記事から   NO 150

社葬の会場をホテルというケースは、今やビジネス社会では常識となり、夏や冬の季節にホテル以外を式場として通知すると、得意先からクレームが入る時代にさえなって来ている。

 個性化、多様化ニーズの潮流にあって、ホテルは社葬だけではなく、偲ぶ会、お別れ会など、個人葬や家族葬も今後に流行することは確実であろう。

 7月27日付けのサンケイ新聞の記事に、<自由さウケて「ホテル葬」浸透>という見出しの記事が、東京から発信されていた。

 記事内容の末文に、<葬儀プロデュースの大手、大阪高級葬儀では「シティーホテルの八割が仏事サービスに興味を抱き、その大半が実際に行動を起こしている」と話す>と、弊社のことも取り上げられていた。

 これらは過日にあった取材からであるが、新聞記事にあった東京Aホテルの祭壇写真のお粗末なレベルには衝撃を受けた。

 故人と伴侶の知り合いがボウリングという趣味であり、そんなところからボウリングのレーンを祭壇として創作されているが、こんな単純発想を「かたち」にされる企画力は、正直に申し上げて恥ずかしい限りで、新聞社に提供するレベルの写真ではないと思っている。

 ホテル空間で葬送サービスを提供される場合、重要視しなければならないのは「礼節」であり、奇抜なアイデア、イベント的発想は「お笑い」の世界に化してしまう危険性がある。

 与えられた会場空間を聖域化し、儀式空間に神変させるプロデュース。そこに生まれる環境空間こそがホスピタリティを売り物にするホテル本来のサービスレベルであり、こんな会や集いのレベルの提供では、近い将来に凋落して行く姿が見えている。

 これらは無宗教形式というところに恐ろしさが秘められており、遺族や参列者だけの一時的満足ではなく、故人の存在を最優先し、参列者全員に「納得」の生まれる空間提供が必要で、「会」や「集い」から「式」への意識改革が求められて来る筈。

 NO 149にも書いたが、「体感に勝るものはなし」という言葉通り、今後は参列体験による比較判断が分かれ目になるだろう。 

 葬儀とは、命とは、死とは、宗教とは、悲しみとは、別れとは、追憶とは、思い出とは、慰めとは、癒しとは、愛惜とは、惜別とは、悲嘆とはなど、人間学、サービス心理学の研鑽なくして葬送サービスは完成しない。

 私がプロデューサーとして招聘を受けている超一流ホテルでは、そんなグレードの高いサービス提供の構築を求めて来られているのである。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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