2005-11-28

仕事の道  NO 1347


 松山の塾生のブログ、大変な忙しさの中で今日は2回発信していた。それに刺激されてという訳ではないが、このコラムも偶然だが今日は2回目。

 前号のテーマとなった看護師さん問題だが、<書かなければ!>という伏線があったのでご紹介が責務と考えた。

  過日に広島で担当させていただいたご葬儀、故人は素晴らしい看護師さんだった。式場の入り口に制服姿のお写真があったが、それは毎日新聞の全国版に大きく 掲載されたもので、婦長さんの重職を表すキャップのラインが誇らしく、患者さん達に慕われて強い信頼に結ばれた存在を見事に物語るものだった。

 多くの患者さん達から寄せ書きされた数枚の色紙を拝見したが、すべてに感謝の思いが伝わる内容、だからこそ女性の塾生2人に「お別れ準備中に代読を」と頼んだのである。

  そんな立派な看護師さんを送らせていただくご縁の後で今日の事件、私やスタッフの「怒りモード」をご理解願えるだろうが、それ以上にご家族が悲しんでおら れた事実を知って欲しいし、何より存命されて死に至らしめようとする病気と壮絶な闘いをされている患者さんに気の毒で失礼ではないか。

 それこそ「嘆かわしき哉」だが、専属の葬儀社が出入りする病院では「灰色の天使」の存在が目立っていることも淋しい現実だ。

 今日も長くなって恐縮だが、最近、アポの申し込みが激増してきた。どうも<すぐに12月を迎えるから?>だけではないようだ。

新 商品のセールスや営業は前々から多いが、それを別として考えてみると、特徴的なこととして二つに分かれる。ひとつは異業種、もうひとつは同業者であり、両 者に共通しているテーマが急変する葬祭業界の将来の展望で、所謂「ソフト」の重要性にやっと気付かれた時代を迎えたように感じている。

 10年前を振り返ってみると分かり易いだろうが、ホテル葬、偲ぶ会、お別れの会、無宗教、家族葬、メモリアルボード、追憶ビデオ、レクイエムバージョン曲などのキーワードが業界で表面化することは皆無だった。

 それらが一挙に社会用語になるまで変化を遂げた現実、そこで新たに重視されてきた世界が「命、癒し、愛、慰め」ということになるだろう。

 そんなことを全国の講演で喋ってきた「変なオジサン」だが、ちょっと「変ではないオジサン」として見直されてきたのかもしれない。

 それらの実践を指針して集まった日本トータライフ協会のメンバーや塾生達だが、彼らもその重要性を確信共有する仲間である。

  司会トークのフレーズに「人は、辛い思いをしただけ人にやさしくなれる」というのがあるが、日々に悲しみの場に身を置くと、そうなって当たり前の筈。長年 の経験から気付いた葬儀の仕事、そこに目覚めたのが「命の伝達」であり、「不幸の中で不幸でないようなひとときのプレゼント」という思い。

 本来は、宗教者がそうあるべきだが、「御布施」が「料」と化してしまっている現実が何より淋しく、私が交流を重ねる限られたお寺さん達と協力し合って取り組みたいテーマだ。

  塾生達にも司会の技術も教えているが、それよりも重視しているのが上述のテーマ。私が発行する終了証は、技術ではなく抱いてくれた「心」に贈るもの。そう なれば技術だけに固執する「司会屋」さんでは不可能な愛という名の「味」が自然に生まれ、真の葬儀の司会者と呼ばれることになる。

「技術 は目で盗め、耳で盗め」なんて言葉が職人の世界に常識のように伝わっているが、司会の世界でそんなことを考えているようでは情けない。シェフや料理人の世 界なら理解できるが、葬儀の世界は「この世にいなくなる人」と「悲しみの遺族」に対するもので、二度と出来ない機会に接していることが異なるのである。

 だからこそ最善を尽くし、やさしく包んであげる空間を創造したいし、参列された方々にも「やがてこの日が訪れる」ことを伝えたい。

  協会を立ち上げる目的の中に「葬祭業界の文化向上」という豪そうなことを言った。世に「伝統」と「文化」という言葉があるが、文化はお客様である他人側の 認知が必要、「あなた達の仕事、凄いね、プロだ」となれば文化が生まれるが、伝統とはいつの時代にも正座をして見詰めるべきもの。胡坐を掻いていては凋落 の道を辿る。

我々の仕事に文化の到来、その日を夢見て精進を重ねたいものである。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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