2005-12-27

遺志の尊重?  NO 1376


 最近、新聞の訃報記事に「事後報告」的な記載が増えている。住所や式場を家族の意思で非公開というケースも多く、すでに葬儀を終えたという内容や「近親だけで」という文章も多く目に留まる。

 そんな中で「家族葬」という言葉が流行しているのだが、これが意外にややこしい問題を生じさせることが多く、単純発想で進められたら取り返しのつかない結果を招くことがあるので慎重に願いたいもの。

  ある「家族葬」でのケース、スタッフのアドバイスから近所の方々へ「故人の遺志」をお知らせし、地域への対策はうまく運んだのだが、遺族内部の意思統一が 成されておらず、「限られた親戚のみです。会社関係も知らせません」と仰っていたのに、ご納棺の際に弔電が山積み。<これは?>と疑問を抱いたスタッフか らの一報で万一の対策を決めておいたのが功を奏した出来事だった。

お通夜が始まる前に大変な数の参列者がやって来られて大騒ぎ。通夜礼状、返礼品の追加から「通夜ぶるまい」の料理の手配は予定通りだったが、親戚さん同志で揉め事に発展中とのこと。最悪のことを考え、急遽、私が司会を担当するために向かうことになった。

 ご遺族、親戚、弔問者の総勢で40人ぐらいと予想されていたお通夜、それが一気に250人の参列となったのだから大変。暖房設備や接待担当スタッフを増やすことは出来たが限界がある。それよりも心配だったのは「揉め事」だった。

 私が式場に到着したのは10分前、確かに険悪なムード、一部の親戚の方々が空いている椅子に座らず立たれたまま。ついさっきまで最悪な状況だったとスタッフが。

 さて、開式5分前になった。お立ちの方々を座らせるのは簡単なこと。「お寺様のご入場」という言葉に強い効力があるからだが、一方でスタッフを走らせ、お寺様に「開式を5分遅らせる」旨をお願いしておいた。

  さあ、ここからが私の仕事。やさしい口調のコメントから始め、しばらくしてから強烈な司式バージョンモードに急変、続いてやさしい雰囲気でご遺族に慰めの 言葉、そこからご遺影にご注目をいただく世界に入り、故人に対する語り掛けから「故人の遺志」と「その尊重の難しさ」を説教型で説き、このように多くの 方々が集われたことが「ご仏縁」と故人の人徳であると結んだ。

 これは、その場におられた方々にしか理解できない世界だろうが、ご導師の読経が終わってご退出された後、そこには和やかな雰囲気が生まれ、喪主様や親戚の方から手を握られて感謝の言葉を頂戴した。

 考えてみれば誰も悪くないのである。敢えて言うなら「遺志」の尊重のシナリオが拙かったとなるだろうが、悲しみの遺族にそれを求めるのは無理なこと。葬儀は非日常的なことでありハプニングも当たり前と考えたいではないか。

 ここで私が描いたのは、喪主様をはじめとする遺族に少し責任があったとしたこと。それが故人の遺志の尊重から招かれた誤解とし、総責任は故人にあると結んだ訳である。

 一方で、雪が降ると思い出す葬儀がある。小高い斜面の高級住宅街の最上部分に建てられたお家、遺言から自宅で葬儀が進められたが、そこに700人の弔問者が訪れた。 

 次の日、葬儀の当日だが、少し積もり掛けた雪道で車が大渋滞、歩く方々が何人も転ばれて大変な目に。おまけに霊柩車が辿り着けず、小雨模様の中を400メートルも葬列で
お運びすることに。

  葬儀に関する遺言はご自由だが、参列者のことを考えていないことが多くあり、ご遺族が困惑される光景を何度も体験した。そこで正常な判断力を求めることは 酷なこと。悲嘆の心理を考慮すると無理がある。遺言を託される弁護士さんも葬儀の勉強をされるべき、それらは社葬に関わる会計士さんや税理士さんにも言え ること。無駄なことや二重の悲しみを避けていただきたいと願っている。

 今日の結びに函館の女性が発信される「空飛ぶ水冠」コラム「迷いの窓」が連載更新されたことのお知らせを。タイトルは「音の迷宮」だったが、ご訪問は「久世栄三郎の世界」のページからどうぞ。
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