2002-06-27

ブラジル 珍道中  後 編   NO 118

場所は、空港到着口を出た所にある両替所のすぐ近く。彼は、私がドル紙幣を両替するのを見ていたらしい。

「15パーセント増しで、両替をしてくれないか」と言うのが彼の頼み。所謂ヤミの両替行為となり、違法行為になる問題である。

 日本を出発する前、ブラジルに詳しい旅行会社のスタッフに、外貨が貴重なブラジルでは、外国に行く為のドル両替調達には「年間で幾ら」というような規制が設けられており、外国人の旅行者へのアタックが多いと聞いていたが、まさに、その体験であった。  
 
 周囲には大勢の人がいたので恐怖感はなかったが、何と言っても言葉が通じないのが恐怖。「ブラジル人の大勢の友人達が間もなく来る。それからだったらどうだ」ということで落ち着いたが、「20パーセントならどうだ」と言うので、よほどドルを必要としていたようだ。

 やがて待ち人達がやって来た。あらかじめの手紙と写真のやりとりから互いの顔が認識され、すぐに握手と抱擁という歓迎を受けたが、航空会社の勝手な変更で、相手側には8時間というロスタイムを与えてしまったことが口惜しい。

 羽田出発から38時間が経過。我々2人は、とにかくホテルで休みたいという気持ちがあったが、先方はスケジュールを決めておられ、タクシー乗り場の近くに止めてあった6台の車にそれぞれが乗り、まずは、おじさんの長男の家へと向かうことになった。

 運転されている人がご本人だそうで、片言の日本語が通じるので安堵したが、時差が12時間という国、飛行機の中の調整も効果がなく、いつの間にか眠ってしまっていた。

 急カーブの揺れで、ふと目が覚めた。時計を見ると空港を出てから1時間半が経過している。車は、サンパウロの郊外を走行していた。そこで、どのぐらいの距離があるのかと尋ねてみた。

「もう100キロを走った。後、300キロぐらいです」

 それがお答え。日本の10キロとブラジルの100キロの距離感覚の違い。それも旅行会社に教えて貰ってはいたが、<狭い日本、そんなに急いで何処行くの?>という交通標語の意味がよく理解出来た瞬間であった。

  息子さんの立派な豪邸に2日間お世話になることになったが、おじさんは、県人会や日本人会の要職を歴任されており、地元では著名な人物で、次の日には市長 に表敬訪問するようなことも組まれてあり驚いたが、私が「ポルトガル語はダメ、英語なら少しは」と言ってしまったことがとんでもないことになっていた。

 市長室に招かれた時、高校の英語の先生という方が通訳として入られ、英語でのやりとりということになっていたのである。
 結果として、おじさんがポルトガル語と日本語の通訳として間に入られ、事なきを得たが、未だに忘れられない冷汗物語である。

 広大な国。おおらかなお国柄。10日間のブラジル滞在、それは私の人生観に大きく影響を与えてくれる貴重な体験となったが、ここには書けない珍道中が山ほどあった。

  また、何れ書くことになるでしょうが、そうそう、最も印象に残っている体験だけを結びに。それは、「ポエラ」と呼ばれる地道の砂埃現象で、車の行き違いで 互いが30分ぐらいも停止しなければならないという想像を絶する別世界。北海道のスノーパウダーの砂埃バージョンと言えばご理解いただけるだろう。

 大阪の会合で知り合ったブラジル人女性から、「ポエラ」と言っただけで、親密感ある笑顔をプレゼントいただいたことも申し添えます。
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