2002-09-30
悲しみの表札 NO 211
ご不幸の発生から、ご葬儀の依頼を頂戴するわけだが、先方さんがパニック状態にあり、お名前、ご住所、電話だけを伺うだけでも難しいこともある。
これらは、お寺様やご近所の方からのご紹介の場合には少ないが、永い歴史の中には、「母が亡くなりました。お葬式をお願いします」と言っただけで電話を切ってしまわれたこともあった。
もちろん、それから20分ぐらいして再度のご依頼があったが、非日常的なことの発生は、時には信じられないようなやりとりも生まれる。
ご一報で参上すると、当然のように表札を確認するが、私は、この表札に様々な思いを抱いている。
表札に明記された所帯主が亡くなられると、葬儀が終わってからどのぐらいで表札が変えられるかご存じだろうか?
実は、数年もそのままということも少なくないのである。
それは、核家族の時代になって、ご夫婦二人暮しの場合の防犯的な役割もあるだろうが、伴侶を亡くされた奥様は、夫の名前が刻まれた表札を変えたくない心情が強いそうだ。
伴侶と過ごした家。家具のすべてに触れていた命と思い出。それは、言葉で表現出来ない強い絆で結ばれており、その集大成が表札となるのかも知れない。
満中陰も過ぎ、非日常的な生活から少し悲嘆が和らぐことがあっても、買い物に出掛けて帰宅した時、「あなた、帰りましたよ」と、表札に呼び掛けておられる光景が目に浮かんでくる。
一方で、妻に先立たれた男は弱い人が多いようだ。表札は自分自身の名前であるのに日常生活が全く機能せず、印鑑は? 保険証は? 通帳は?など、家事を任せていた人の存在がなくなると、人としての行動機能が想像以上に低下してしまうもの。
炊事、洗濯、買い物。男の独り暮らしほど寂しいものはないだろうし、見る見るうちに老いていく姿には哀れみさえ感じるものである。
しかし、女性は強いもの。夫を亡くされてから輝く人生への再出発というケースを、どれほど多く見てきただろうか。会う度に美しくなり、目が生き生きとされ、まるで別人という方も何人もおられた。
偕老同穴という言葉があるが、どちらかが先に逝くのは世の定め。えにしに結ばれた夫婦が、生きている内に互いに輝く人生でありたいもの。
こんなことを書いているが、男というものは、本当に「勝手なもの」で「寂しがりや」であることを断言する。それは、私もそうだからだ。