2002-08-11

礼 節    NO 162

与えられた会場空間を聖域化された儀式空間として「神変」させるという表記を何度もしてきたが、これは、大切な「方」 の大切な「儀式」に大切な「宗教者」を迎えるという、終焉の儀式における基本的な信念であり、私のプロとして最も重要視しているところで、これらを短い言 葉で表現するなら「礼節の基本」ということになるだろう。

 今年の始めに考えさせられる話題に出会った。アメリカの柔道界で15回も全米大会を優勝している女性の起こした裁判である。
 
 彼女は、畳の敷かれた道場への入退出や、掲示されている歴史に輝く柔道家の写真に対する「礼」が嫌で、それが日本の神道の世界に関係することであり、宗教の押し付けであると訴えた訳である。

 アメリカの柔道会も、彼女の柔道界における至宝的な存在を考慮し、内部的には「礼」を割愛することを認めてきていたようだが、それを裁判所に持ち込むというところが如何にもアメリカらしいところだ。

 結果は。どうなったのだろう。裁判所が下した判断は、宗教に基く儀礼ではないということで、彼女は敗訴したことになった。

 アメリカを代表するような柔道選手。そんな女性が柔道に入門することになったのは何時のことだろうか。それは、果たして本人の希望だったのか、それとも親の薦めからであったのだろかと興味が湧くが、どちらにしても、最初の頃にそんな抵抗感を抱くことはなかった筈だ。

 日本の武道である柔道、その道場となれば聖域化と神変化される空間であることも必然であろう。そこでの礼儀、それは自身の心の神変であり、「道」の名のつく世界の最低限度の「礼儀」と「節度」だと考える。

 義務と権利の論議が交わされることも多いが、伝統や歴史のことも、また社会の流れや変化も考えなければならないだろうが、「人間の道ありき」を忘れることになれば大切なことを見失ってしまうことになり、確実に誤りの道を歩むことになる。

 過去や周囲の環境、そして背景を見つめる余裕がなければ変革は困難であり、他者を慮る心がなければ、自身の思いを理解されるためのスタートラインに立つことさえも出来ないと思う。

 どんな世界でも正座をして見つめる謙虚な姿勢が大切で、胡坐を掻いた驕りの世界は凋落の道を進むことになる。それらは昨今の政治家だけではなく、雪印や日本ハム、また、大阪人の一員として恥ずかしい限りのユニバーサルジャパン問題にも明確である。

 無宗教形式の葬儀が流行している。ホテルでの偲ぶ会やお別れ会も潮流のようだ。しかし、それらが礼節を欠いた「会」や「集い」のレベルにある時、必ずや崩壊の道を辿ることになり解決不可能な「後悔」が待ち受けている。

 我々日本トータライフ協会が関わる無宗教、ホテル葬。ここに秘められた本物志向があり、そのキーワードが礼節を生む「愛」と「癒し」なのである。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net