2003-09-06

葬送文化の四季    NO 538

弊社が加盟している「日本トータライフ協会」、そこで毎日更新中のコラム「有為転変」の今日の号で、「黙祷」に関する発想転換のことが書かれてあった。
 
これは、司会者と名のつく方々には「必見」もの。是非、ご訪問くださいますようご案内申し上げます。

さて、午前と午後と、お2人のご住職とお話しする機会があったが、偶然に共通して悩んでおられることがあり、これらに関係する業者として警鐘と啓蒙をしなければならないと考えている。

今の世の中、確かに宗教意識が希薄しているが、家の伝統である「檀家制度」の崩壊にまで影響を及ぼすという事実が、一部の葬祭業者によって行われていることを知っておきたいもの。

 ある檀家の方がお寺にやって来られ、「お墓に納骨したいのです」と言われる。事情を伺うと数日前に葬儀が行われ、当日に初七日を済ませたとのこと。

 その葬儀が行われたのは、葬儀会館。「当会館での通夜葬儀は、当会館専属契約のお寺さんとなります」、「ふた七日からは菩提寺へどうぞ」ということで進められたそうで、「業者も業者なら、お寺さんもお寺さんだ。信じられない」と嘆かれておられた。

  最近、そんな話を耳にすることが多くなった。ネット社会の中にも「お寺さんを派遣します」というビジネスも登場しているし、「読経料」を表記している団体 もあるが、「お布施」が「料金」と表現されるようではこの世も末。伝統ある仏教会に衝撃を感じていただきたいと感じている。

 今から十数年前のことだが、著名な高僧と対談する機会があった。その時、その方がおっしゃられた次のお言葉が現実化してきているようにも思える。

 「このままでは、お寺は檀家周りをする『お経の宅配人』になってしまうだろう。お寺が葬儀社よりも弱くなってしまった時、宗教者として存在する本義を失ってしまうことになる」

 私は、宗教者の方々への講演を担当させていただいたこともある。延べ人数ということになれば、おそらく数千人となる筈だが、いつも上記のことをお話してきたし、無宗教葬儀の増加についての警鐘提起も行ってきた。

 そんな危惧していたことがいよいよ表面化してきた昨今だが、無宗教なら「会」を「式」にしなければとの強い信念だけは抱いているし、人間の持つ「心」の弱さに「宗教は不可欠」ということも結論として学んでいる。

 そこで予測されるのが葬儀と告別式の分離形式。「感動の告別式」であっても「葬儀」の意義が欠落していれば誤り。プロとは反省するが後悔しないのが誇り。その答えに「本義」があることを信じたい。

 葬儀は宗教者を迎えて「家族葬」、告別式は家族皆さんで考える。そんな形式が潮流となりそうだが、無駄の省略を考慮すると義理的会葬者の割愛がポイントになるだろう。

 しかし、ここに宗教者が抱かれる問題があることも事実。通夜や葬儀が「布教の機会」とされておられること。それならば、悲しみのない義理的参列者を納得させるだけの説教パワーが重要となってくる。

 『葬儀って、誰のためのもの』と、悩んでしまうこの頃。「秋」から「冬」へ。葬送の文化に「春」が訪れることを祈念している。
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