2002-04-05

今日も「生かされて」いる

毎日、日本中で悲しい葬儀が行われている。病気もあるが事故もあり事件もある。

我が国の年間死亡者から推察すると、1日に2700名様の方々の葬儀が行われていることになり、その日の内に、次の日に葬儀を迎えるための御通夜が、また2700名様あるということになる。
 
ご 遺族、参列されたご親戚、会葬者、近隣の方々、式場となったお寺や地域会館のご近所の方、式場の前を偶然に通られた方、そして交差点に立て掛けられた式場 案内看板などをご覧になった方を合計すれば、どれだけの人が「他人事」ではない「葬儀」「死」を意識する機会となったかご想像いただけることでしょう。
 
家族の一員に俄かに訪れた不幸、不慮災いによる人の死は、大半が人災と言われているが、天災を含め、「家族」が突然に「遺族」と呼ばれることになると、大きな心理変化が生まれ「悲嘆」の世界に陥られる。
 
怒り、不信感、絶望感、猜疑心、孤独感、自責感、虚脱感、無気力、判断力低下などの兆候に襲われ、ひどい場合には幻聴、幻覚の心理状態にまで追い詰められることも少なくない。
 
これまでに多くの方々を送らせていただいたが、ご旅行先での事故、外国での災難、航空機事故、交通事故などは、本音を言えば担当させていただきたくないというケースを多く体験してきた。
 
一昨日の「安全運転」にもしたためたが、加害者の存在がある場合の葬儀は本当に難しく、加害者側の依頼からの担当には、想像を絶する苦しさと苦労がある。
 
大切な方を失う。その怒りが加害者という「対象物」に向けられるのは当然だが、天災となると対象物がなく、我々も共に悲しむしか手立てがないという淋しいところがある。
 
記憶に新しい阪神淡路大震災、この未曾有の惨劇は、二度と体験したくない悲劇を象徴するものだった。悲しみの儀式を行なう家も崩壊し、火葬場までも機能しないという現実は、近代社会に於ける危機管理の枠を大きく超えるほど衝撃的なものであった。
 
 いかなる場合でも「ご遺体」の尊厳を遵守出来ること、それは文化国家の証と言えるかも知れない。

過 日、我々の協会に加盟される神戸の「公詢社」さんに参上し、社長やスタッフの方々とお話をさせていただいたが、震災の発生から始められた会社上げての行 動、葬儀社の責務としての使命感に燃え、裏方に徹しながらご苦労をされた秘話など、私の心に大きな感動を与えてくださることになり、改めて協会メンバー研 修会で講義をいただくことになった。
 
「弊社の毎年の正月は1月17日から始まります。前日に、担当させていただいた方々のご自宅や、関 係される宗教者の皆様にお花を届け、当日は、社員全員に朝の5時に出勤することを決め、禊として入浴と新しい下着に着替えて来ることも義務付け、発生の時 間である5時46分から屋上で追悼式を行ないます。それが終わって供養の食事。そこからお正月なのです」
 
そう語ってくださった社長さん。その横におられたスタッフの方々が誇りげに頷かれておられたのが印象に残っています。

<人の死に涙を流すとき、それは、やがてやって来る自身への哀れみであることも忘れてはならない>
 
人の「死」に接しられる時、諸行無常の理に、ご自身の「生」を確かめる時とお考えいただければ幸いです。              ・・・・九 拝 合 掌
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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