2002-07-15

ある訪問者   NO 135

ある日、あるお寺様がご来社され、葬儀で知り合われたという女性司会者の指導を頼まれたことがあった。

  お話によると、後日にやって来るその女性は、葬祭業者に属されないフリーの方で、司会者としての技量はあるが、肝心の宗教の異なりを理解されず、その宗派 で絶対に用いてはならない言葉を連発され、葬儀の終了後に導師であられたご住職が、あたたかいご心情から「勉強されたら」とご提案されたそうだ。

 彼女は、永年ブライダルやイベント司会者として活躍され、3ヶ月ほど前に何処かで葬儀の司会の研修を受けられ、仏教と神道の形式を学んだそうだが、これなら出来ると自信を持たれ、偶然に受注した葬儀の司会を担当し、このお寺様と出会ったということだ。

「知らぬが仏」という言葉そのままに、仏教の宗派で言葉表現の違いに重要な意味があることを知らず、何の疑問も生まれず、堂々とマイクを握ってしまった訳であるが、恐らく、ご遺族や参列者の方々は、そんなことを誰もお気付きになることはなかったであろう。

それだけに、お寺様からのご指摘は、彼女にとってかなり衝撃であったものと拝察する。
プロと呼ばれる立場にある人は、他人の指摘に対して羞恥を抱くことも当然で、反省で済むことなく、後悔に至る場合には、その職を離れることになることもある。

その後、アポがある筈と思って忘れていた頃、お寺様からお電話を頂戴した。
こちらのスケジュールを確認され、3日後に来社されることになったが、お寺様のご提案の日から、ご本人が来社されるまでには、約1ヶ月の時間が流れていた。

やがて3日後、彼女が来社された。初対面で司会者という雰囲気のある方で、この1ヶ
月の空白について訊いてみると、私の推測通り、あの日から恐怖感を抱いてしまい、葬儀の司会を断念しようとも思われたそうだが、心配されたお寺様の励ましから、再度挑戦する気になったそうだ。

 彼女への指導は、宗教の勉強の前に、まず、司会技量の確認から入った。私が出したプリントの3分間ナレーションに目を通し、その後、「自由なイメージで」と注文を出し、3種類の音楽をバックに語らせることにした。

 このプリントにしたためられた原稿には、私なりの悪戯が仕組まれてあり、彼女は驚いた表情で「これは?」と返してきた。

 句読点の全くない文章。それを一度だけ目を通してナレーターとして挑戦する。たったこれだけで司会者としての技量が解る。

 その結果、残念だが、彼女の技量は、一流には程遠いレベルであった。次に句読点の入った別のバージョンを読ませて見たが、これも全くダメ。

 緊張の所為もあるだろうが、それを差し引いても及第点には及ばず、取り敢えず問題解決のアドバイスを始めることにした。

「司会者として構えてしまっていませんか?」「BGMを活かす余裕がありますか?」「何文字も先に目が行き、言葉を後から出すテクニック、<目追い>を何文字可能ですか?」
「アナウンス・儀式・ナレーター・カギカッコ、4種類のトークの変化を出せますか?」
「ドレミファソ・・というように、1オクターブのどの音程からもコメントスタートが出来ますか?」

 彼女は、完全に固まってしまっていた。和らげる方法はただ一つ。私がその見本をやってみせ、体感させること。そしてやった。

 彼女は確かに体感した。確かに驚き感動した。そして、さっきより固まってしまった。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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