2002-06-17

喜びの裏側で    NO 108

ワールドカップで日本中が湧いている。予想もしなかった日本の予選リーグ1位。道頓堀から飛び込んだ人が1000人以上。美しくない水で「病気にならなければ」と心配している。
 
 さて、ワールドカップが始まってから、困っていることがある。それは、チケット予約に関することからだろうか、ノートパソコンの携帯電話が非常につながり難く、原稿の発信に支障を来たしたことが何度もあるからだ。

  一方で、日本中が喜びの中で「悲しみ」を迎えた人も多くいらっしゃる。何度も書いたように、我が国では1日に亡くなられる方が2700名様。サッカー開催 中にご不幸を迎えられた方々のご人数は大変な数になり、ご遺族の皆様には、今後にあられて、サッカーやワールドカップの文字、言葉、映像をご覧になられる 時、いつも故人を思い出されることになる。

 スポーツは人間の躍動の姿が感動を呼び、「生」の「証」となるべきものだが、勝者、敗者の背景には、様々なドラマが生まれているだろう。

 最近、全国で、葬儀の式場が騒がしくなってきているという声があり、宗教者の方々からも同意見が多く、義理的会葬者の会話を原因とする迷惑で不謹慎なオシャベリ、そのインテリジェンスの欠落に嘆いているが、悲しみの遺族の耳に入る笑い声だけは許せないところだ。

 ある時、九州の女性司会者から「いつも騒がしいオバサン達に困っています。お寺様が後ろを振り返られても止まらないのです」と掲示板に書き込んで来た。

 アドバイスとして、開式前の儀式空間の完成テクニックを返信したが、そんなオバサン達が亡くなられたら、「葬儀」ではなく「争議」の発生から「騒儀」となるだろうと付け加えた。

「共に喜ぶのは2倍の喜び。共に苦しむのは半分の苦しみ」という、ドイツの古い名言があるが、他人の悲しみを理解しようとされる「やさしさ」は、その人の人格の基本であるように思えてならない。

 人生には様々な衝撃との出会いがあるが、最も苦しくて悲しいことは、子供さんを亡くされることだろうし、それが事故や事件という突然の悲劇ともなれば、想像を絶する悲嘆に陥ることになる。

 昔、4歳、11歳、18歳と、3人の子供を亡くした著名人の言葉が印象に残っている。
 その悲劇の主人公はアブラハム・リンカーンで、次ような言葉を残しておられる。

「私 達が住んでいるこの悲しみに満ちた世界にあって、悲しまない人は一人もいない筈です。悲しい時は、胸が張り裂けられるような苦しみを味わいますし、それ は、時を待たねば完全に消え去りません。やがて、いつの日にか、心が晴れる時が来るとは、今は夢にも思わないことでしょうが、あなたは、きっと、また幸せ になれます。この確かな真実がお解りになれば、今の惨めな気持ちが少しは和らぐ筈です。私は、自分自身の体験から申しているのです」 

 大切な方を失う悲しさ、それは、果たして時間の経過で解決出来るのだろうか。薄らぐことがあっても、絶対に解決にはならない。それが私の考えである。

失った「もの」の代わりは有り得ない。なぜなら、「もの」は「者」であり「人」であるからだ。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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