2003-06-02

思わぬところで    NO 448

書くか書かないべきか迷っていたが、やはり責任を感じるところもあり、ここにしたためることにする。

 先月中頃のある夜、次のようなお電話を頂戴した。

 「昨年、貴社の担当した無宗教葬儀に参列し、感動した。数日前に母が亡くなり大手葬儀社に依頼して無宗教葬儀をお願いしたが、月とスッポンという体験となり悔しい思いをしているのです」

 私が担当した葬儀に参列されていなかったら、きっと無宗教葬儀を考えられることはなかった筈。大切なお母様の葬儀で取り返しのつかないお心残りが生まれ、本当に心苦しく思っている。

 「大手葬儀社なら出来ると思ったのに」

 そのお言葉が突き刺さってくるし、<思わぬ波紋が?弊害かも?>と私にも責任があるように感じ、お気の毒で残念この上ないが、この解決が不可能だけに申し訳ない心情に襲われた。

 通夜と葬儀の式次第を伺ったが、開式、黙祷、献花、閉式だけの2日間だったとのこと。

 祭壇は確かに無宗教のイメージを感じたとはおっしゃっておられたが、進行の内容がそれではとんでもないこと。私にしか出来ない司式バージョンを体験されたのだからお怒りは理解出来る。

 そんな偉そうなことを言い切っている私。皆さんには「自信過剰」とご批判もあるだろうが、参列された皆様から賛同、感動、歓迎のお言葉を山ほど頂戴し、収録ビデオをを見たすべての葬儀社が、衝撃を受けたレベルなのだからそう言うのである。

  進行係という司会が可能な葬儀社は山ほど存在するが、無宗教形式の進行で「司式者」をつとめることが出来るのは私だけ。今、その重要性に気付いた日本トー タライフ協会に加盟する葬儀社達が猛勉強中で、そのレベルが高まりつつあるが、私より年齢が若いというというところが解決できない部分。自分が背負った人 生の重みこそに重厚という意味の世界が生まれるからである。

 式進行の中で、常識では考えられない失礼なトークを発することがある。これは、ご遺影の存在に対する「礼節」を重視しているから許されるものであり、ここに単なる司会者との違いがある。

 ある社葬で著名な女性司会者をアシスタントとして使ったことがある。私の横で担当させた彼女のトーク技術は素晴らしいが、はっきり言って合格点を与えることは出来なかった。

 「こんな世界があるなんて、司会者の究極の世界を感じました。司会者と司式者の違い、それを初めて体験した貴重な時間でした」

 そう言われた彼女は、その日から意識改革をされ、高度な世界を目指して猛勉強をされているそうだ。

 全国の葬儀社の大半が「無宗教できます」との宣伝をされている時代、上述の責任をしっかりと心に刻んで取り組んでいただきたいと願っている。
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